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隼人



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隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩国|薩摩・大隅国|大隅・日向国|日向(現在の鹿児島県・宮崎県)に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「ハヤブサのような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも(あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。

概要
古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが<!-- 『日本の考古学 ? 古墳時代 (上)』 近藤義郎 藤沢長治編 河出書房 1966年 p.163(参考論文はこれより古いと見られる) -->、「熊襲」という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳天皇|仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている<!-- 門脇禎二 森浩一『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 学生社 1995年 p.186より -->。こうした近習の記事や雄略天皇が亡くなり、墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされる<!-- 武光誠 『古事記・日本書紀を知る事典』 東京堂出版 1999年 p.223にも同じ記述あり -->が、6世紀末や7世紀初め説もある<!-- 同『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 p.196 -->。
服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは大隅国設置(713年)後にも反乱を起こしたが、隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が征隼人将軍大伴旅人によって征討(721年)された後には完全に服従した。延暦11年(793年)8月にはこれまで6年に1度の「隼人の調」を廃した(『類聚国史』隼人条)。これに伴って、一般の公民と同じ調庸に置き換えられて隼人とそれ以外の百姓との間の負担の公平化を図ったと考えられる。続いて延暦18年(800年)には班田収授法が初めて実施された。元来、奥羽両国や薩摩・大隅などの「辺要国」における班田収授が遅れた理由は、班田収授には墾田の収公なども伴うために帰属した蝦夷・隼人を含めた辺要国の「百姓」の動揺を防ぐとともに彼らの墾田を保護した優遇策であった。従って、班田収授法の対象になるということは隼人にも一般の公民と同じ租庸調が課される条件が整えられたことになり、法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」の完成を意味したと考えられる。8世紀初め、現在の鹿児島県一帯への移住民は総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定され、この推定に従うなら、(総人口6万3千人−9千人前後で)5万4千人前後が在地人=隼人と推定される(本州への移住民は含まず)。
古くから畿内に移住させられ、宮中で守護に当たる<!-- 『日本書紀』に隼人が門番を務め、その時、遠吠えする風習(悪霊から門を守る為)があった事が記されている。 -->ほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京田辺市には「大住」の地名が残る。律令制下においては、隼人司(衛門府、後に兵部省)が、これらを司った。
言語・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった<!-- 『古事記』『日本書紀』に「代々朝廷で舞っていた」と記され、民俗だけでなく、中央政権にとって服従の示しとして認知されていた舞を、「有名であった」とする表現に問題はないと考えられる。 -->。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』に記述があり、合致している)。
肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている。

各地の隼人
阿多隼人(薩摩隼人)  薩摩半島一帯に居住していた隼人族。薩摩国設置以前はこの一帯はアタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。『日本書紀』天武天皇11年(682年)の記事に記される。薩摩国設置後は、『続日本紀』和銅2年709年で薩摩隼人の呼称が用いられる。 大隅隼人 後世、大隅郡(大隅半島北部、特に「大隅郷(現在の志布志市から曽於市大隅町)」周辺か)と呼ばれる地域に居住した部族、主領域を肝属平野とする部族であるとする説もある。『日本書紀』天武天皇11年(682年)の記事ある。 多?(たね)隼人 種子島と屋久島(多禰島)に居住した部族。大宝2年(702年)には多?の隼人、征討軍を派遣して鎮圧する事態になった。 甑隼人 甑島に居住した部族。『続日本紀』神護景雲3年(769年)の条に記事。 日向隼人 日向国に居住した部族。『続日本紀』和銅3年(710年)に部族の首長である曾君細麻呂が服属し外従五位下(少納言や上国の守相当)に叙されたとの記事がある。ただし、これは、713年大隅国が分離される前の記事である。『宇佐神宮史』養老3年(719年)の条には「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事(「隼人の反乱」の前哨か)が見られる。
隼人の考古学
考古学的には、鹿児島県・宮崎県境周辺に地下式横穴墓が分布し、これを隼人と関係づける説もある。これを含み、考古学上、隼人の墓制は三種類あり、薩摩半島南部の「立石土壙墓」(阿多隼人の墓と推測される<!-- 門脇禎二 森浩一 『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 学生社 1995年 pp.184 - 185 -->)と「地下式板石積石室」(薩摩半島より北域)、そして広域に分布する「地下式横穴墓」となる。また、南山城の男山丘陵の大住からも横穴が多く発見されている(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するものとみられる<!-- 同『古代史を解く『鍵』』 p.187 -->)。

神話の中の隼人
日本神話では、海幸彦(命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もある。654年(7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域のトハラ人と解釈するが、現在のタイ・ドヴァーラヴァティ王国|ドヴァーラヴァティとの説有り)の民が漂着した記述がある。

人骨から見た違い
松下孝幸の『南九州における古墳時代人骨の人類学的研究』(1990年)によると、南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている。つまり、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。さらに種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、頭蓋変形がほどこされていたと考えられている<!-- 発掘された日本列島 ’2008 朝日新聞社 -->。

隼人系呪術と関連氏族

 

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