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溝口健二

溝口健二



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Wikipedia

溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年〈明治31年〉5月16日 - 1956年〈昭和31年〉8月24日)は、日本の映画監督である。

日本映画を代表する監督のひとりで、1920年代から1950年代にわたるキャリアの中で、『祇園の姉妹』(1936年)、『残菊物語』(1939年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)など約90本の作品を監督した。ワンシーン・ワンショットや移動撮影を用いた映像表現と完全主義的な演出で、社会や男性の犠牲となる女性の姿をリアルに描いたことで知られている。小津安二郎や黒澤明とともに国際的にも高い評価を受けており、1950年代にはヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞し、フランスのヌーヴェルヴァーグの監督などにも影響を与えた。

生涯

生い立ち

1898年5月16日、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区湯島2丁目辺り)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれた。3人姉弟の2番目で、7歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる。父方の祖父の彦太郎は、明治維新後に神田で請負業を営み、日清戦争や北清事変では軍夫を募集して戦地に送っていた。善太郎は大工(屋根葺職人という説もある)で、一儲けしようと折からの日露戦争を当て込んで軍隊用雨合羽の製造事業を始めたが、いざ売り出そうとした時に戦争が終結したため失敗した。まさは御殿医の家の娘だったが、夫に忠実に苦労続きの生活に耐え、やがて病に倒れた。善太郎の事業失敗で借財がかさみ、家も差し押さえられたため、1905年に一家は浅草玉姫町(現在の台東区清川辺り)に引っ越した。この時期の溝口家は貧窮のどん底生活を送り、口減らしのために寿々は養女に出された。

1905年に溝口は私塾の田川学校に入学し、1907年には近所に開校した石浜小学校へ転入した。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。1911年秋、小学6年生の溝口は岩手県盛岡市の親戚のもとへ預けられ、翌1912年に同地の小学校で卒業するまでの約半年を過ごしたが、盛岡へ預けられた理由は溝口にも分からなかったという。東京の実家に戻ると中学進学を希望したが、父の反対で叶わなかった。養子の口もいくつかあったがいずれも上手くいかず、退屈な毎日を送っているうちにリウマチを患い、約1年間の闘病生活を送った。溝口は一家を貧困に陥れ、母を苦労させた無能力な父を憎むようになり、その関係は悪化していった。この頃、寿々は養家から日本橋の芸者屋に奉公に出され、やがて半玉になると客で子爵の松平忠正に落籍され、妾宅に囲われる身となった(後に正妻となる)。一家は寿々からの仕送りによって経済的に支えられ、暮らしも少しは楽になった。

1913年、溝口は絵を描くのが好きだったことから、浅草の浴衣の図案屋に弟子入りした。同じ図案屋仲間の弟子には、松竹蒲田撮影所の監督で小津安二郎の師匠となる大久保忠素がいた。しかし、浴衣の図案に物足りなさを感じ、日本橋浜町の模様絵師に弟子入りした。この頃、一家は寿々が父の隠居所としてあてがった日本橋新場橋(現在の日本橋と兜町の境)の家へ転居した。1914年12月には貧苦の家庭で苦労し続けた母が亡くなり、それにより溝口の父に対する反発はさらに強まった。やがて溝口は本格的に画家の道を志し、1916年に黒田清輝の主宰する赤坂の葵橋洋画研究所に入り、1年間にわたり洋画の基礎を学んだ。この頃、研究所近くの劇場ローヤル館でローシーがオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたことから、溝口もそれを手伝っているうちにオペラに嵌まり、浅草オペラに通い詰めた。また、寄席で講談や落語に親しむなど江戸趣味に凝り始め、トルストイ、ゾラ、モーパッサンなどの外国文学や尾崎紅葉、夏目漱石、泉鏡花、永井荷風らの小説を読み漁った。

洋画研究所を出てからも絵の勉強は続けていたが、それだけでは食っていけないため、花柳界育ちで顔の広い寿々の口利きで、1917年に名古屋の陶器会社の図案部に職を得た。しかし、溝口はどうにも働く気にはなれず、入社翌日に東京へ舞い戻った。翌1918年、神戸又新日報社で広告の図案係を募集していることを知り、銀座にある東京支社に志願すると簡単に採用され、月給40円で神戸の本社へ赴任した。溝口は広告取りなどの仕事をする一方で、自作の短歌を紙面に載せたり、当時盛んだった新劇に熱を上げたりしていた。この頃は気の合った仲間3人と関西学院大学前に一戸を借り、「三昧荘」と名付けて合宿していた。しかし、神戸又新日報も1年で辞めてしまい、東京に戻ると寿々の家に居候した。20歳を過ぎても定職がない溝口を寿々たちは心配したが、溝口は仕事を探そうともせず、図書館や美術館に通ったり、浅草でオペラや活動写真を見物したりして日々を過ごした。

映画界入り

1920年、溝口は向島で琵琶を教えていた友人の所へ遊びに行くうちに、琵琶を習いに来ていた日活向島撮影所の俳優の富岡正と親しくなり、富岡の手引きで向島撮影所に出入りするようになった。そのうち新進監督だった若山治と知り合い、若山の撮影台本の清書などを手伝っていたが、同年5月に若山に勧められるまま向島撮影所に入社した。当時、映画の仕事は社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可が下りた。溝口ははじめ俳優を志望していたが、最古参監督の小口忠の監督助手に入れられ、俳優の手配をしたり、毎日スタッフの弁当の伝票を書いたりするなどの雑用もこなした。1922年には田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督につき、田中にその能力を認められた。しかし、同年11月の『京屋襟店』完成試写後に13人の所属俳優と阪田重則などの監督が連袂退社するという騒動が起き、その前後には小口も日活を退社したため、スタッフが手薄になった。溝口はこうした状況の中で、田中の推挙により監督昇進を果たした。

1923年2月、溝口は若山の脚本による『愛に甦る日』で監督デビューした。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、検閲でズタズタにカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎに入れて公開した。溝口は5月公開の『敗残の唄は悲し』で初めて注目され、7月公開の『霧の港』で新進監督としての評価を得た。同年9月1日には関東大震災が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した。撮影所は軽い被害を受けただけですみ、溝口は早速会社の命令でカメラマンの気賀靖吾とともに震災後の市内の実況フィルムを撮影し、次に震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を監督した。しかし、向島撮影所は閉鎖と決まり、11月に溝口を含む所属者たちは京都の大将軍撮影所に移った。大将軍時代は1ヶ月に1本のペースで幅広いジャンルの作品を撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプの時期と言われた。

この頃の溝口は、毎夜のごとく祇園や先斗町、木屋町通などで飲み歩いていたが、1925年2月頃に木屋町のやとなだった一条百合子と親しくなり、やがて同棲生活を始めた。しかし、百合子とは痴話喧嘩が絶えず、同年5月末に『赫い夕陽に照らされて』のロケ撮影から帰宅後、百合子に背中を剃刀で斬りつけられた。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰はスキャンダルとして新聞の三面記事に書き立てられたため、『赫い夕陽に照らされて』の監督を降ろされ、さらに会社から3ヶ月の謹慎処分を受けた。溝口は起訴を免れて東京へ行った百合子を追い、ヨリを戻したが、結局別れて京都に戻り、9月に日活に復社した。翌1926年公開の『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価され、前者はこの年に始まったキネマ旬報の日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた。

1926年末、溝口は俳優の中野英治に連れられて行った大阪のダンスホールで、ダンサーの嵯峨千恵子(本名は田島かね、通称千恵子)と知り合い、次第に親密な関係になった。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していたヤクザの親分から呼び出しがかかった。青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で笹井末三郎とも親しかった永田雅一の力を借りて千恵子の身辺を清算し、翌1927年8月に永田の媒酌で結婚した。この年から1928年にかけて溝口の作品数は減り、体調を崩すこともしばしばあった。1928年5月には撮影所が大将軍から太秦に移転し、溝口はその新撮影所の脚本部長に就任し、しばらく監督業から離れた。9月には昭和天皇の御大典記念映画を監督する話が出たが、撮影所の都合で延期となり、次に溝口初の時代劇を大河内傅次郎主演で撮る話も出たが、これも実現しなかった。1929年1月公開の泉鏡花原作『日本橋』でようやく監督に戻り、同年は主題歌と共にヒットした『東京行進曲』や、当時隆盛した左翼思想を反映した内容の『都会交響楽』で成功を収めた。

トーキー時代

1929年5月以降、日本ではアメリカのトーキーが公開され、早速国内でもトーキーが作られ始めた。1930年に溝口もミナ・トーキー方式を使用して、部分的に歌やセリフを付けたパート・トーキー作品『藤原義江のふるさと』を撮影したが、雑音が多くて技術的には失敗した。1932年には自身初のオール・トーキー作品『時の氏神』を撮影したが、撮影終了直後の4月4日に日活を退社し、白井信太郎の誘いで新興キネマに移籍した。同社で最初の仕事は、入江たか子の独立プロである入江プロダクションの第一回作品『満蒙建国の黎明』(1932年)で、2か月間に渡り満州各地でロケ撮影をしたが、編集作業が手に負えぬほど無茶苦茶に撮ってしまい、途中で編集を放棄して雲隠れしたという。その次に再び入江プロで鏡花原作の『瀧の白糸』(1933年)を撮影した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれ、サイレント映画時代の溝口のピークとなった。

1934年3月、溝口は新興キネマと契約が切れたことで退社し、日活の製作部長だった永田雅一の要請で日活多摩川撮影所に入社した。同社では山田五十鈴主演の『愛憎峠』を撮ったのみで、8月22日に永田が日活を退社すると溝口も行動を共にし、9月に永田らと第一映画社の創立に参加した。同社では鏡花原作の『折鶴お千』(1935年)をはじめ、『マリアのお雪』『虞美人草』(1935年)などを撮影したが、いずれも低調な評価で再びスランプに突入した。1936年公開の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』では批評家から高い評価を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは前者が3位、後者が1位に選ばれ、スランプを脱することができた。岸松雄はこの2作を「日本映画史上に輝かしい金字塔を打ち立てた」作品と評し、佐藤忠男は「それまでもベテランとして尊敬されていた溝口を、さらに巨匠という最高級の呼び名で呼ばれる存在にした」作品と述べている。


 

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