CLOSE

CLOSE

ジャンル別公演チケット

エリア別公演チケット

条件別公演チケット

HOME > THE PRODIGY

THE PRODIGY

THE PRODIGY



※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube検索等を行い、
その結果を自動的に取得・表示しています。


 

Wikipedia

ザ・プロディジーThe Prodigy)は、イギリスのテクノ / エレクトロロック・バンド。

1980年代末期のレイヴカルチャーをその出身基盤にもち、ロックとテクノの積極的な融合を試みることで、その先駆者として既存の電子音楽の持つ可能性を大きく押し広げた。特に、世界的なヒットを記録した3rdアルバム『ザ・ファット・オブ・ザ・ランド』は、1990年代におけるダンス・ミュージックの到達点、金字塔と評される。

メンバー

  • リアム・ハウレット(Liam Howlett)(プログラミング、キーボード)
バンドのリーダーであり、楽曲の製作とライブのサウンドシステムを一手に引き受ける。バンドのかたわらDJとしても活躍している。幼少時代にクラシック音楽の英才教育を受けて育っており、ドラムやピアノもこなすマルチ・プロデューサーである。元オアシスのフロントマンであるリアム・ギャラガーとは、妻であるオール・セインツのアップルトン姉妹を介して義理兄弟の関係にある。その縁でしばしばコラボレーションをすることがある。
  • マキシム(Maxim)(MC / ヴォーカルおよびダンサー)
唯一の黒人メンバーで、キースとともにプロディジーのフロントを張る。ライヴではメイン・ヴォーカルをこなし、ドレッドヘアをなびかせてカンフーや空手のようなアクロバティックなダンスをしながらステージ上を縦横無尽に動き回る。他方普段は物静かでおとなしい寡黙な人柄であり、ステージ上とは好対照のキャラクターをもつ。アレキサンダー・マックイーンのデザインによるファッションショーのモデルを務めたこともある。

旧メンバー

  • リロイ・ソーンヒル(Leeroy Thornhill)(ダンサー)
2000年脱退。足元のおぼつかないステップでユラユラとしたブレイクダンスを披露していた。バンドがレイヴ系から幅広い音楽性を追求していく中でその存在感が薄くなり、衆目一致でバンドを去った。後に「フライト・クランク」名義でソロ・デビュー。
近年ではDJ Hyperの作品にボーカル参加するなど他アーティストへの客演も行っている。
  • キース・フリント(Keith Flint)(MC / ヴォーカルおよびダンサー)
バンドのフロントマンとしてプレスへの露出が多かった。デビュー当初は肩まで伸びた長髪スタイルであったが、3rdアルバム期前後から壊れ始め(『Nogood』当時は志茂田景樹のようなトロジャン・ヘアーだった)、逆モヒカン(頭髪の中央をそり上げ、左右に残した髪の毛を逆立てた髪型)にアイシャドウをほどこした隈取メイクのヴィジュアルがトレードマークであった。その後、幾度か髪型は変わり晩年には金髪のソフトモヒカンスタイルとなっていた。ファッションも独特で、ユニオンジャックをあしらったステージ衣装が多く、本人もたびたびユニオンジャックへのこだわりを口にする(しかし本人は自らのファッションについての話題は好まない模様)。ロバート・スミス(ザ・キュアー)以来のカルト・ヒーローとして、そしてファッション・アイコンとしてニュー・ミュージカル・エクスプレス誌等の表紙を飾ることも多かった。
既婚者で、妻は日本人女性である。バンドに帯同するPAスタッフを務めるかたわら、DJ Gedo Super Mega Bitch(日本では DJ mayumi)の名義でDJ活動も行っており、時折プロディジー公演の前座DJとしてハウスを中心に回すこともあった。
2019年3月4日、エセックスの自宅で縊死を遂げているところを発見された。49歳没。
  • シャーキー(Sharky)(ダンサー)
唯一の女性メンバーであったが、XLレコーディングスとの契約と前後して脱退している。ファーストアルバムのブックレットにおいてその名を目にすることができる。
また、Voodoo People(Pendulum Remix)のMVにゲームの参加者として出演をしている(最後ゴールまでたどり着いた女性)。

経歴

バンド結成からデビュー

1990年、イギリスのエセックスのクラブでメンバー5人が出会い、バンドが結成された。

1980年代終わりから盛り上がりを見せたセカンド・サマー・オブ・ラブシーンや、それに続くレイヴカルチャーにおける人気アーティストとして、アンダーグラウンド・シーンを賑わす存在となる。

1991年にXLレコーディングスと契約(これと前後してシャーキーが脱退)。アンダーグラウンドの熱気を受けるように、リリースするシングルがイギリスのダンスチャート上位に常にランクインするようになった(シングル 「チャーリー」 や「エブリバディ・イン・ザ・プレイス」は当時のレイヴシーンを代表する曲として、今なお根強い人気がある)。

1992年にファーストアルバム『エクスペリエンス』をリリース。いち早くドラムンベースを実践し、ブレイクビーツを多用したこのアルバムは多方面から脚光を浴び、バンドは一躍メジャー・シーンにのし上がる。日本ではフジテレビで深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』でシングル『Everybody in the Place』がUKシングルチャートでNo.1を獲得。おまけにエイベックスから発売されたコンピレーション・アルバム『SUPER CLUB GROOVIN Vol.5』にも1曲目に収録されている。

1993年に初来日。当時XLの版権を持っていたエイベックスの招待で、ジュリアナ東京でレイブを行ったが、当時の日本ではプロディジーの知名度はほとんどなく、ジュリアナ東京の本来の客の反応は悪かった。一方で、プロディジーの来日を聞きつけた熱狂的ファン(渡辺健吾、当時はミニコミ誌『Delic』を主宰する一般人、のち音楽ライター)が「ジュリアナを乗っ取れ!」と記したミニコミ誌や「扇子女どもを蹴散らせ!」と記したフライヤーを配り、数百人のTシャツで汗だくの熱狂的ファンがジュリアナにもぐりこんだため(ジュリアナにはドレスコードがあったが、中で着替えた)、エイベックスの偉い人は苦々しい顔になり、お立ち台ギャルはドン引きした。1994年に再来日し、東京ドームで行われたエイベックス主宰のイベント「avex rave '94」で、エイベックスが用意した750名のお立ち台ギャルを含む約5万人の前で演奏を行ったが、いきなり4つ打ちガバを決めるリアム、踊りすぎてステージでこけたり客席に乱入して暴れるキースやステージ上で煽るマキシムに対して、trf目当てで来場した客の反応は渋かった。代わって、またしてもプロディジーのために東京ドームにもぐりこんだ熱狂的ファンが前に出てモッシュしはじめ、お立ち台ギャルを引きずりおろしてステージに登ろうとしたが、屈強な黒人の警備員に制止された。プロディジーは「日本初のレイヴイベント」と聞かされて来日したが、ディスコみたいなところに2 Unlimitedと同じステージに立たされ、実際は極めて商業的なイベントであったことに気づいて憤慨した。キースはジュリ扇を持った大量のお立ち台ギャルを見てショックを受けた。その翌日、渡辺に「いいクラブ」と教えてもらった西麻布のイエローでレイヴを行い、満足して帰国。いちおう日本初の単独公演になるが、狭いハコというのもあり、キースがお客さんをイジったりステージに上げたりして結構フレンドリーだった。1993年当時の日本人は本場のレイヴを知らず、小室哲哉がレイヴを誤解して作ったTRFがデビューした時期であり、イギリスでヒット曲を連発していたプロディジーの版権を持つエイベックスは販売戦略上、プロディジーを「ジュリアナ東京のパワープレイ」として売り出していたが、実際にはジュリアナ東京のジュリ扇を持ったお立ち台ギャルには踊りにくいので不評だった。

2nd、3rdの世界的ヒット

1994年、セカンドアルバム『ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション』を発表。「ブードゥー・ピープル」「ポイズン」などの斬新な手法を取り入れたトラックを中心としたこのアルバムで、オルタナティブ・ロック系サウンドを大々的に導入。

ブリットポップのバブルに沸くUKロックシーンとの相乗効果もあってアルバムは全英1位を獲得。英国内だけで100万枚を超えるセールスを記録し、バンドの人気と評価は確固たるものとなった。またこの年に二度目の来日。エイベックス主催「avex rave '94」に参加した。1995年には小室哲哉が主宰する「Avex dance Matrix '95 TK DANCE CAMP」に参加し、8月22日、本会場であるヴェルファーレの向かいにありながら全く毛色の違う場所だった「ジャングルベース」でレイブを行った(今回は残念ながら小室ファミリーとの対バンはなかった)。


 

取扱中の公演・チケット情報

現在取り扱い中の公演はありません。