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三遊亭 圓橘(さんゆうてい えんきつ)は、落語家の名跡。三遊派の系統から生まれた名である。当代は六代目。
2代目 三遊亭 圓橘(天保8年2月20日(1837年3月26日) - 明治39年(1906年)7月11日)。は、落語家。本名は佐藤三吉。通称「薬研堀の師匠」(両国の薬研堀に住んでいたことから)。
麹町出身。14歳の時に父が亡くなり、以後は上絵師、料理人などの仕事して生計を立てるかたわら、「京橋連」という天狗連において落語を披露していた。その後元治元年(1864年ないし1865年)に3代目立川焉馬の下に入門し、花久馬となる。慶応3年の秋ころ(1867年)には初代三遊亭圓馬(通称「駒止の圓馬」)門下に入って三遊亭市馬になる。
明治2年2月の末(1869年4月)に三遊亭圓朝門下に入り、1873年5月に真打昇進。この時に三遊亭圓橘に改名したと思われる。一時期圓朝と不和になり、1884年9月には最初の師匠の名・4代目立川焉馬を襲名したが、後に和解し、1886年ころ?には再び三遊亭圓橘に戻った。
圓朝七回忌の法事の日に、参会者の面前で倒れ愛弟子の初代立花家橘之助の膝に抱かれでこの世を去った。
師匠圓朝譲りの人情噺から怪談噺まで芸の幅は広く、また茶道や書画などにも精通しており、人格者としても知られた。
初代三遊亭圓馬、3代目三遊亭圓生、4代目三遊亭圓生と並んで、「圓朝四天王」の一人に数えられている。