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高木三四郎

高木三四郎



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Wikipedia

高木 三四郎(たかぎ さんしろう、1970年1月13日 - )は、日本の男性プロレスラー、実業家。血液型A型。DDTプロレスリング所属。本名:高木 規(たかぎ ただし)。大阪府豊中市出身。

DDTプロレスリングとプロレスリング・ノアを傘下に持つ株式会社CyberFight(サイバーファイト)の代表取締役社長を務めている。

来歴

幼少期の高木はテレビっ子であり、物心ついたころから『ロンパールーム』にハマっていた。子供の頃は人形を集めたり、近所の友達と野球やサッカーをやったりすることはなかった。幼稚園のお遊戯で「にこちゃん」と「こまったちゃん」(いずれもロンパールームの番組内におけるミツバチを擬人化したキャラクター人形)の2つを真似する時に時に決まって「こまったちゃん」のチームに入れられるなど、やんちゃなお調子者であり、活発な子供であった。そんなある日、父親の仕事場であるテレビ局のスタジオに連れて行かれ、仕事をしている父親の姿を見るうちに自分の親がテレビ番組を作る仕事をしていることを子供心に理解する。毎日放送の技術部に勤める父は忙しかったためどこにも遊びに連れて行く時間がなかったが、その代わりに職場に我が子を連れるようになった。友達と遊んだりおもちゃをいじったりするよりもずっとおもしろかった高木は、テレビに映るスポットライトが当たる世界よりも、その裏にある制作現場に憧れるようになる。

一方でプロレス中継も見るようになり、「オープンタッグ選手権」のザ・ファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク戦が高木の原体験になった。特撮やアニメと同じ感覚でこの一戦を捉えた高木は翌日学校でプロレスごっこを始めた。小学生の時点でプロレスをやる上での流れを意識しており、ごっこではあるが全体を見てショーを構築するプロデュース肌が発揮されていた。この時点で将来はプロレスラーになると夢を持ち、そのためには何かスポーツをやらなければならないと思ったが、中学には柔道部がなかった。

関西大倉高校に進学した際には先輩も同期もプロレス好きで固まった柔道部に入部した。顧問の先生が老齢で休みがちなことをいいことに柔道部では好き勝手していたと伝わっており、柔道の受け身などをロクにやらず、バックドロップやブレーンバスターで投げられることでバンプを身に着けていった。柔道場での練習はプロレス技ばかりであり、部は柔道部を装ったプロレス部というべき様相を呈していた。実際に柔道の昇段試験で高木はバックドロップを決めて一本勝ちしている。柔道をやっていたとの意識はまるでなく、3年間大好きなプロレスをやったつもりでいた。

高校卒業後は駒澤大学に進んだが、駒大には学生プロレス部がなく、まずプロレス観戦を熱心に行った。1988年、新生UWFが旗揚げした春に、当日券狙いで前日の夕方から後楽園ホールの外へ並んでチケットを買ったこともある。この時一緒に徹夜したのが中島修明(元DDTスタッフ)である。UWF関係では、鈴木健(のちのUインター取締役)が用賀で経営する文房具店のアルバイトの女子大生が同じ講義に出ていて知り合いとなり、旗揚げ3戦目の有明コロシアム大会のチケットを取ってもらった。前田日明vsジェラルド・ゴルドー戦で前田がゴルドーを裏アキレス腱固めで下したのに影響されてプロレス好きの連中の間で真似して、それに前後して大久保のスポーツ会館でサンボを習いに行った時期もあった。現在のファイトスタイルに生かされてはいないが、萩原幸之助から1年ほどサンボの技術を学んだ。大学3年生の頃、ちょうどプロレス熱が冷めて幼少期のテレビっ子ぶりが姿を見せるようになった。東京へ行ったらテレビに出たいとの願望があった高木は、大学の「テレビ番組研究会」に入会したのがきっかけでスタジオ観覧者やエキストラを派遣するようになる。これを続けるうちに、メンバーの中から「自分たちでイベントを開催したい」と主張する者たちが出てきて、ある日麻布十番の「マハラジャ」で開催されたディスコパーティーに誘われて行ってみた時に、人が集まって一体になって盛り上がるイベントをお金を儲けたいという意識は二の次で開催したいと思い、こうして在学中に芝浦で手がけたイベントで3,000人の集客に成功する。

その後次々とイベントを手掛け、すでにプロレスラーになりたいとの意識は跡形もなく消えていた。既にどのディスコに行ってもVIPルームに通され、大手テレビ局のプロデューサーや芸能関係者から一目置かれる存在となっており、このままイベントプロデューサーの道に進むかと思われていた。肉体的には何ら身になることはなかった時期だが、代わりにプロデュース力、イベント成功させるノウハウ、さらには観客論と言った文科系の方で得たものはこの頃が最も大きかった。これについて高木は、「ジュリアナ東京を使って飯島愛のイベントをやった時に、モニターがあるから使おうとなってオープニングVを作って流したのが最初でした。エンディングも、曲を流して盛り上がって終わりだったのを、自分たちはエンドロールを流してバラードチックな曲で締めたんです。だからDDTを始めて日本のプロレスで初めて本格的に映像を使ったのも、僕からすれば特別なことではなくてそれが当たり前な感覚だったんですよね。こうしたアイデアの元ネタは、やっぱりテレビであり、映画。ホイチョイプロの作品やトレンディードラマって、最後はそういう感じでおわるじゃないですか」と後に語っている。

ところが、プロレスの磁力は思わぬ形で高木を引き寄せる。大学を休学し、アメリカを短期間流浪した後も高木は「やめたくない」と大学を留年していたところブレーメン大島に出会い、横浜市鶴見区の屋台村・ヨンドンで定期的に行われていた屋台村プロレスの広報スタッフとしてプロレスに携わることになる。1994年3月に留年を続けていた大学を卒業、同年8月にIWA格闘志塾に入門、屋台村プロレスに参加。屋台村プロレスで試合をしており、12月31日の鴨井長太郎との試合でデビューを果たしているが、屋台村プロレスは正式な記録を取っていないため、正式デビューは翌1995年2月16日のPWC渋谷大会におけるトラブルシューター・コウチ(現:高智政光)とされていることが多い。屋台村でデビューしてからも、イベント活動は続けていたが、サークル仲間からは「高木さん、なんでプロレスなんかやるんですか?そんなの儲からないじゃないですか。何千人と集めることができる高木さんが屋台村なんてところで酔っ払い相手にプロレスって…」と呆れられていた。金銭的にも居心地の良さ的にもイベントプロデューサーの道を選択した方が賢明なのは明白であったが、これに関して高木は「自分の中では、プロレスとサークルは分けていたんです。理由のひとつとしては、例の『スーパーフリー』が世間を騒がせたので、同じに見られたくなかった。僕らの時代ではあんなのは考えられなかったことで、スーパーフリーはそのあとの世代になるんです。僕らは純粋に何人集められるか、集めた人間をどれだけ楽しませられるかで頑張っていた。あとは…本当に意地だけでしたね。認められていないという現実が悔しくて。イベントとかディスコに行けばVIPルームに通されていた自分がプロレス界では一兵卒で、業界からも同業者からも黙殺されて。それって、俺の人生ではないな…との思いが強かったんです」と答えている。

1996年にPWCへ移籍するも、すぐにフリーとなる。この年、第41回衆議院議員総選挙に神奈川県第9区から自由連合公認で立候補するも落選(この時の選挙ポスターは、ハードコア戦で「精神的な凶器」として使われる事がある)。

1997年にDDTプロレスリングの旗揚げに参加、以降エースとして団体を盛り上げる。

2000年12月14日、KO-D無差別級王座を獲得。2003年1月31日、KO-Dタッグ王座獲得(パートナーは橋本友彦)。

2006年1月29日に社長争奪ロイヤルランブルを制し、DDTの社長に就任。以後は「大社長」の肩書きで、DDTの成長に力を注いだ。鈴木健想(現KENSO)と電流爆破マッチを敢行する。

2008年4月、初の著書「俺たち文化系プロレスDDT」(太田出版)を出版。そのプロモーションとして東京・中井の伊野尾書店にて「本屋プロレス」を行う。(対戦カードは高木三四郎×飯伏幸太)。

2008年12月、後楽園大会でHARASHIMAを相手にKO-D無差別級選手権を防衛した直後、翌2009年8月にDDT初の両国国技館大会開催を発表。「自分たちのなかで限界を作ってたんじゃないのか?そんなことやったって上に行けないんだよ!限界を作ってたらなにもできないよ!」と団体創設以来初のビッグマッチ開催への意気込みをマイクで語った。

2009年8月、DDT初の両国国技館大会「両国ピーターパン 〜大人になんてなれないよ〜」を開催。8865人(超満員札止)の観衆を集め、見事成功を収める。この年米国のプロレス業界紙「レスリング・オブザーバー」のレスリング・オブザーバ・アワード2009のベストプロモーター部門第2位に選ばれた。

2010年2月11日KO-Dタッグ獲得。パートナー澤宗紀の意向により初防衛戦をスポンサーの工場(宮地エンジニアリンググループ)で行い防衛成功(vs GENTARO・中澤マイケル)。試合後、対戦相手のGENTAROから、「葛西純どころじゃねぇ!本物のキチ○イだよ!」と言われた。

2010年9月26日、マッスル坂井との引退セレモニーランブル(敗者は即日引退)に敗れ、現役引退。同時に、翌日の現役復帰を宣言。


 

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