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羽佐間道夫

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Wikipedia

羽佐間 道夫(はざま みちお、1933年10月7日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。熊本県荒尾市生まれ、東京府(現:東京都)出身。ムーブマン所属(代表取締役)。既婚。

略歴

父親が三井三池炭鉱に勤務しており、社宅のあった熊本県荒尾市で生まれる。1939年に父が転勤したことで東京都高輪に移住し育った。幼少期から人前に立つのが好きで、学芸会などでは必ず舞台に立ち、東京都白金国民学校(現:港区立白金小学校)時代は創作童話の朗読を全校生徒の前でしていたという。小学2年生の時に勃発した太平洋戦争から一時は長野に疎開。3年後に高輪へ戻り、終戦後は新橋駅近くで物を売って生計を立てた。

東海大学の付属中学校在学中に演劇部へ入部し、当時は宇野重吉や滝沢修らを目標としていた。その後、ほかにやることもなかったため、役者を志して舞台芸術学院 に5期生として入学。卒業後は新協劇団(現・東京芸術座)に入団した。在団時は薄田研二に育ててもらったという。その頃、寄席の切符売りのアルバイトをしていたが、当時の売り場は顔が見えず壁に空いた手を出す穴だけで応対をしており、当時の客層から「女性の切符売りの方が評判がいい」と考え、女性のような高い声で応対をした。後に「それが最初の声優の仕事かもしれない」と回想している。また、名人の落語を毎日聞く内に、「客の人数によって話の間を変える」「話の間の開け方で異なる人格を演じ分ける」などの技法に面白さを感じ、外国映画を吹き替える際の「向こうの役者の話す間をアドリブなどで臨機応変に喋ることで埋める」という作業に応用できた述懐している。

1957年に日本テレビから「ヒッチコック(ニッカ ヒッチコック劇場の第1期)をやるんだけどやってみないか」と声を掛けられ、その後、文化放送に勤めていた幼なじみの岡田太郎 から誘われ、短時間でそこそこ稼げる割のいいアルバイトとしてラジオドラマに出演するようになる。その後、出演したラジオドラマを聞いた関係者からの誘いで『ホパロング・キャシディ』の吹き替えをすることになった。当時はコンテンツ不足から海外ドラマの放送が増える一方、吹き替えをやる役者が300人ほどしかいなかったため、羽佐間に吹き替えの仕事がたくさん回ってくるようになったという。以降は声優の草分けの一人として活躍するが、20代の頃は舞台稽古を中断して収録に向かうことが多く、他の劇団員から裏切者扱いされて、白い目で見られることもあったという。しかしながら、演劇の稽古は金にならないが声優の仕事は金になるという現状と、結婚をして家族を養う必要から、次々と来る声優の仕事を懸命にこなす日々を送る。

劇団中芸、風船ぐるーぷ、太平洋テレビジョン芸能部、東京俳優生活協同組合創立メンバーを経てムーブマン代表取締役。

2001年、ナレーションの功績により部門がないにもかかわらず第18回ATP賞個人部門で賞を受賞。2008年、第2回声優アワード功労賞を受賞。

人物

声種はバリトン。

兄は元NHKアナウンサーの羽佐間正雄。従兄にフジサンケイグループ代表などを歴任した羽佐間重彰がおり、三浦環の親戚でもある。

様々な役をこなす芸域の広さから、かつては「困ったときの羽佐間」と呼ばれていた。のちにその役割は後輩の山寺宏一に移行している。

主に吹き替えで活躍。持ち役にはロイ・シャイダー、ディーン・マーティン、シルヴェスター・スタローン、ダニー・ケイ、ピーター・セラーズ、ポール・ニューマン、マイケル・ケイン、ジェームズ・カーン、マルチェロ・マストロヤンニ、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、ジョージ・ペパード、スティーブ・マーティン、チャールズ・グローディン、ジェームズ・ガーナーなどがあり、本人によると「280人くらいのハリウッドスターを演じている」とのこと。

仕事に対する姿勢

声優の仕事は、「形あるものに色を塗っていく仕事」であることから「塗り絵師」と例えている。また、塗り絵師として「パレットに色がたくさん入っていないといい芝居はできない」と語り、音楽や小説、古典芸能など見聞を広めるという。

吹き替えでは、リップシンク(口の動き)より役者と呼吸を合わせることを重視している。

役作りについては、事前に作り込みすぎると、相手に芝居で裏切られ面白みに欠けることもあるため、当日に現場で作る部分が大きいという。


 

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