2016年初頭、劇場を涙で包みこんだミュージカル『手紙』が1年の充電期間を経て、キャストも新たに再び動き出す。今回の注目は、何と言っても犯罪者の兄を持った弟・直貴役を柳下大・太田基裕のWキャストで演じること。ベストセラー作家・東野圭吾の傑作小説に、新布陣でどう挑むのか。主演の柳下大と、2016年版に続き演出を務める藤田俊太郎に話を聞いた。
藤田さんが演出だからこそ、やりたいと思った。
――― もともと「『手紙』が大好きだった」と作品愛を語る柳下。それだけに、2017年版『手紙』の話を聞いたときは格別な想いがあった。
柳下「実はミュージカルについては歌と芝居を両方とも質を高く成立させないといけないという考えもあり、ちょっと苦手意識があったんです。それでも今回絶対やりたいと思ったのは、演出が藤田さんだったから。僕、あまり自分と年の近い演出家さんとご一緒したことがないんですよ。だからいつかそんな演出家さんと一緒に作品をつくってみたかった。それに藤田さんは、僕が思っていたミュージカルとは全然違う作品をつくる方。だから今回は、何より藤田さんとご一緒したいという気持ちでチャレンジさせていただきたいと思いました」
藤田「いやあ、本当に光栄です。柳下さんの舞台は『GARANTIDO』と『オーファンズ』の2作品を拝見したのですが、どちらも素晴らしくて。すごく知性のある役者だなという印象です。『GARANTIDO』では、物語を誘導するような立ち位置の役を。さらに『オーファンズ』では役に入りこむことを求められつつ、けれども決して入りこみすぎてはいけないお芝居を、絶妙なバランスで演じられていた。どちらも知性がなければできない役です。こういうお芝居ができる役者がいるんだと驚きながら観させていただきました」
枷があった方が、もっと上を目指せる。
――― 苦手意識があったミュージカル。なぜその中で藤田作品は柳下の心を掴んだのか。
柳下「単純に言えば、演出がすごく好きでした。『手紙』の前回は『オーファンズ』と重なって拝見できなかったのですがの、公演DVDを観て最初にビックリしたのが、客席の位置が普通の舞台とは逆だったこと。客席への入口がセットの奥にあるんです。だからお客さんは客席に行くのにセットの中を通らなくちゃいけない。まずこの仕掛けに驚きました。あとはやっぱりラストの衝撃です。自分が直貴を演じることが決まった上で観ていたせいもありますが、感情移入しすぎてDVDなのに嗚咽が止まりませんでした(笑)」
藤田「その2点は僕が最もこだわった部分なので、すごく嬉しいです。前回演出する上で意識したのはとにかく原作に忠実であること。奇をてらっているように見えるけど、奇をてらったつもりはなくて、僕にとってはどれも必然なんです。この『手紙』は、昨日表だったものが今日には裏になってしまうという日常の脆さや危うさを描いた作品。東野さんの小説を読んだときに、圧倒的に孤独になる感覚がありました。
そこからどう希望を描けるかがミュージカル化の焦点だったんですけど、結局目の前で起こっている出来事を希望ととるか絶望ととるかはその人次第なんですよね。そういうメッセージをお客様にきちんと渡すために、スタッフ全員が試行錯誤し、手をつないだ末に生まれたのがあの客席逆転のアイデアであり、ラストシーンでした」
――― しかし、2017年の上演に向け、藤田はこうした秘策をあえて手放すことからスタートしてみたいと打ち明ける。
藤田「客席逆転も、ラストシーンも、言わば僕の好きなタイプの演出です。どちらも閃いた瞬間に、これで作品のメッセージを描けたという会心の想いがありました。でも、いつまでもそこに拘泥している限りは、作品との付き合い方が普遍化しない気がするんですよ。僕はこの作品をできれば世界へと持っていきたいという、演出家として当たり前の野望を持っています。そのためには、すべてではないにせよ自分の好きなものを外してみるところから始める必要がある気がしているんです」
――― 自分の得手をあえて外す。それは、演出家にとっては重い枷を手足に嵌めるようなものだ。
藤田「枷があった方がいいんですよ。チャレンジしていかないと、作品をさらに上に上げていくことはできない。一度演出した作品にもう一度取り組むのは、僕にとって初めてのこと。決して2016年版を忘れるわけではないですが、せっかく柳下さんをはじめ初めてご一緒できる方々と仕事ができるので、そういう心持ちで臨みたいなと思っています」
柳下「僕も今まさにその時期かもしれません。初めて明治座で『御宿かわせみ』に出演させていただいたのも、自分から(宮田慶子さんに)直談判して『オーファンズ』という会話劇をやったのも、自分の得意な演技や好きなものから一度離れてみようという想いがあったから。この『手紙』にしてもそうです。ちょっと前の僕ならたぶん怖くてできなかった。でも今はできないことにチャレンジしたいし、やってこなかったジャンルに挑戦してみたい気持ちが強いんです。だから藤田さんとも、これが正解だと信じられるものを一緒に手をつないでやっていきたいと思います」
演出をしていると、今でも蜷川さんの声が聴こえてくる。
――― 藤田と言えば、巨匠・蜷川幸雄の演出助手として、10年余に渡って修行を積んだ。演出家としての才能を大きく花開かせようとしている新星の血脈には、偉大なる師の魂の躍動が感じられる。
藤田「今でも演出をしながら蜷川さんの声が聴こえてくる場面は何度となくあります。少し思い出話をさせていただくと、以前、ある地方に劇場入りしたとき、スケジュールの関係で蜷川さんも美術家さんもいなくて、演出助手である僕が舞台美術の位置を指示しなければいけないことがあったんです。僕は何とか必死で東京の劇場と同じ舞台美術を再現したんですが、後から蜷川さんが到着するなり、一言、“やり直し”と。と言うのも、東京の劇場は客席が舞台に対し長方形だったのに対し、その劇場は客席がやや扇状だったんです。客席の構造が変われば、舞台美術の見え方も変わる。僕はそれにまったく気づいていなかったんですね」
――― 蜷川氏は舞台稽古の時間を割いて、やり直しを命じた。どの劇場でも、どの客席からでも、作品を一寸の瑕疵もなく楽しめること。すべての観客への愛が、蜷川演劇を支えていた。
藤田「何でも昔は自分で3階席まで走って必ず舞台の見え方を確認していたそうなんです。その経験があるから、劇場に入った瞬間、蜷川さんには全客席の見え方聴こえ方がわかるんです。前回の『手紙』では新国立劇場小劇場の他に、新神戸オリエンタル劇場、そして枚方市市民会館に行かせていただきましたが、新しい劇場に一歩踏み入れるたび、頭の中に蜷川さんの声が甦ってきましたね」
自分だけの直貴を厳選して見つけたい。
――― 一方、柳下にとっては約1年半ぶりのミュージカルとなる。
柳下「この作品に関してはあまりミュージカルという意識はないんです。それよりもこの作品を早く世に出したいという気持ちでいっぱい。これが自分の起点になったという作品は今までいくつもありましたけど、それも踏まえた上で、この『手紙』が一番だったって言えるような、そんな作品にしたいです」
――― 注目は、太田基裕とのWキャストだ。
柳下「太田くんを意識しすぎてもいけないし、しなさすぎてもいけないなと思っています。大事なのは、自分の中に太い軸を1本つくること。軸さえしっかりしていればブレることはないですから。前回のりょんりょん(三浦涼介)の直貴も素敵でしたが、僕のイメージする直貴とはいい意味で全然違ったんですね。僕も藤田さんの演出のもとで、いろんな直貴がある中から厳選して厳選してこれしかないという自分だけの直貴を見つけていきたいです」
――― そう意気込む柳下に、藤田から3枚のDVDが渡された。劇中に登場する名曲『イマジン』を歌うジョン・レノンのニューヨークでの生活に迫った『ジョン・レノン、ニューヨーク』、刑務所での生活がリアルに描写された崔洋一監督の映画『刑務所の中』、そして『手紙』のトーンを決定する上で参考にしたという洋画『ディス/コネクト』の3枚だ。
藤田「いつもこうやって資料を渡したりしながら、役者とは役を掘り下げていきます。柳下さんひとりで育てたら黄色になる花を、僕が関わることでもしかしたら青にできるかもしれない。そういうことができるのが演劇だと思っています。ひとりの想像力には限界がある。演劇が演劇たるのは、関係性の中でものをつくれるから。ここから先、僕が柳下さんの受け皿に何を渡していけるか。きっとその先に柳下さんだけの直貴があると信じています」
――― 新たに生まれ変わるミュージカル『手紙』。その時計の針が、今ゆっくりと動き出した。
(取材・文&撮影:横川良明)