お得な公演チケットサイト Confetti(カンフェティ)

小林幸子



※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube検索等を行い、
その結果を自動的に取得・表示しています。


 

Wikipedia

小林 幸子(こばやし さちこ、1953年12月5日 - )は、日本の演歌歌手、女優、タレント、実業家。本名、林 幸子(はやし さちこ)。旧姓、小林。血液型はA型。身長165cm。漫画家の小林まこととは親戚である。「幸子プロモーション」所属。

来歴

新潟県新潟市(現在の新潟市中央区)出身。1963年、9歳の小学4年生の時にTBS『歌まね読本』でグランドチャンピオンとなり、審査委員長の古賀政男にスカウトされる。当時はテレビの音楽番組などは生放送であり、夜7:30のテレビ出演というのは、当時の子供にとっては遅い時間帯であった。この9歳の少女ということも「美空ひばり」を彷彿させ、その「ひばり」のものまねも他の大人の出場者を圧倒する抜群の歌唱力と非常に似ているものまねの出来で、後に「第二のひばり」と言わせるものであった。これが古賀を唸らせ文句なくグランドチャンピオンを獲らせたのである。

翌1964年には新潟市内で肉屋を営んでいた家族とともに上京して古賀事務所に所属し、古賀作曲の『ウソツキ鴎』でデビュー。デビュー曲がいきなり20万枚のヒット曲となる。「天才少女歌手・ひばり二世」として、大映映画では子役としても活躍して共演した勝新太郎には『チビ』と呼ばれて大変可愛がられたと小林もテレビなどで語っている。当時まだ9歳の子供で分別もつかなかった小林が、ある時同期で親友の都はるみと楽屋内でワイワイ騒いでいたところ、ある先輩歌手が激怒し、島倉千代子にすぐに注意して来るよう命じた。島倉は仕方なしに小林と都の元へ注意に行き、「お幸、楽屋というところはお仕事をする場所でもあるし、ステージに立つ前の神聖な場所なのだから騒いだりするところじゃないのよ」と諭したという。小林はその当時から島倉のことを「母さん」と呼び慕い、島倉も小林を「幸」と呼び、亡くなるまでの50年間実娘のように可愛がられて大変親交が深かったという。

1966年7月30日から1968年1月27日まで日本テレビ『九ちゃん!』に『チビッコトリオ』としてレギュラー出演している。

1968年にはNET(現:テレビ朝日)で放映された青春ドラマ『青い太陽』に主演、背泳ぎでオリンピック出場を目指す女学生を演じ、同作の主題歌(エンディング曲)と挿入歌も歌う。しかし、歌手業ではヒット曲が続かず、またお手本としていたはずの美空ひばりの母親から、あまりにもひばりを模倣しているとの嫌悪感から敬遠され仕事が激減していき、15年の長い不遇が続く。当時、興行の世界を牛耳っていた山口組三代目と娘同然に可愛がられていた歌謡界の女王でもあるひばりに嫌われることは致命的なことであった。しかし、後年『おもいで酒』の大ヒット後にひばりとは音楽番組共演やドラマ共演などが縁となり、とても可愛がってもらったと語っている。ドラマ撮影時はスタジオ以外に街中や繁華街などでもロケをしたが、万一ひばりの身に何かあれば大変だと思い、周囲を気にしながら演技をしていたところ、ひばりに勘づかれ、「幸子ありがとう。私の心配をしなくても全然大丈夫よ!」と逆に気遣われてしまったという。

低迷期には15年間に渡って一人で全国各地を行脚し、地方興行の中で人に言えぬ苦労を経験した。昼間は各地の興行を行いながら地元のレコード店やラジオ局、有線放送局などへ一人でキャンペーン廻りをして、夜になると毎晩深夜遅くまで飲み屋やキャバレーなどの繁華街を泥酔客に絡まれたりしながら歌い廻っていた。親友の泉ピン子や夏木マリは互いの低迷時に一緒にキャバレー周りの営業をしていた仲間だった。未成年だった時は20歳と年齢をごまかして深夜の営業を行っていた。

その間には小林幸子(日本コロムビア)→小林さち子(ビクターエンタテインメント)→岡真由美(テイチク)→小林幸子(ワーナー・パイオニア)と幾度も改名したりレコード会社を移籍した。過去にはサンミュージックプロダクションにも所属していた。

1974年には第一プロダクションに移籍する。低迷時の1977年には雑誌平凡パンチのグラビア内でセミヌードを披露した。1979年に『おもいで酒』が有線放送から徐々に火がついてついに200万枚の大ヒットをする。この年の暮れ『第30回NHK紅白歌合戦』に出場、紅白初出場を果たす。『全日本有線放送大賞』グランプリ、『第21回日本レコード大賞』の最優秀歌唱賞に輝く(『おもいで酒』のレコード売り上げ枚数は大賞曲『魅せられて』を上回る。この年の『ザ・ベストテン』(TBS系)年間1位は『おもいで酒』である)。『いつみても波瀾万丈』内で語ったところによると、前年(1978年)の大晦日は熱海へ興行に来ており、終了後に小林のマネージャーやスタッフと一緒に紅白を見ながら「来年こそは絶対にヒット曲を出して紅白へ出たいな!」と話したところ、スタッフ達に「幸っちゃん、絶対無理だよ!!」と笑われてしまったが、翌年に本当にヒット曲を出せて初出場できたのが夢のようだったという。

1980年にはシングル『とまり木』も大ヒットした。その後も『ふたりはひとり』、『もしかしてPartII』(美樹克彦とのデュエット曲)、『雪椿』などの大ヒット作に恵まれ、紅白への連続出場も果たし、1991年 - 2009年まで紅白での美川憲一との派手な衣装対決は紅白恒例の話題作りとなっていた(美川は2010年以降は出場していない)。美川とはデビュー前後から古賀政男の元で一緒にレッスン指導を受けていたため、年齢は離れているが50年前からプライベートでも親交が深く「憲ちゃん」「幸ちゃん」と呼び合う仲で、音楽番組以外にもバラエティ番組などに仲良く出演するなどしており、デビュー当時からお互いの低迷時の苦労等も全て知り尽くしている。

1983年5月にはロサンゼルス、ブラジルなどで初めての海外公演を行い、新宿コマ劇場で初の単独座長公演を行った。

1987年には、第一プロダクションから違約金2億円で独立、個人事務所の幸子プロモーションを設立する。

1988年、紅白に10回連続出場。自身初となる紅組トリを務める。

1993年、歌手生活30周年を迎えNHKホールにて記念リサイタルを行う。同年12月、紅白に15回連続出場を果たす。

1996年、ワーナーミュージック・ジャパンが演歌部門を撤退したのに伴い、古巣の日本コロムビアに移籍。

1997年、第9回日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞。同年にテレビ東京系アニメ『ポケットモンスター』のエンディングテーマソング『ポケットにファンタジー』を歌い、以後何度かポケモン関連の活動を行っている。『ポケットにファンタジー』がテレビ初放映されたのはポケモンショックの回であった。同年にはイマクニ?、レイモンド・ジョンソンとのユニット・スズキサンとしてシングル『とりかえっこプリーズ』を発売。ポケモンカードゲームのCMソングとして流れた。

1998年、芸能生活35周年を迎える。ジャズの殿堂ブルーノート東京にて、演歌歌手としては初のライブ「35th ANNIVERSARY Boogie&Blues」を開催。『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』のエンディングテーマソング『風といっしょに』を担当。そして、同年の『第49回NHK紅白歌合戦』では『風といっしょに』を熱唱。また、この翌年正月に放送されたポケモンの音楽を紹介するSPでこの時着た衣装の前で同曲を熱唱した。紅白に20年連続出場を果たす。

1999年、覆面歌手『Satchomo(サッチョモ)』としてアイフルのCMソング『お地蔵サンバ』を発売。Satchomoは暫く正体が明かされなかった。新宿コマ劇場にて「華麗なる幸子の世界」シリーズがスタート。


 

取扱中の公演・チケット情報

公演名
公演期間
会場
チケット購入

取扱中の公演
割引販売
な!

<理由あってなっトク価格!チケット>
18名限定!S席10,000円 → 7,800円さらに300Pゲット!
2019年7月6日 (土) 〜
2019年7月7日 (日)
NHKホール