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JUJU



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Wikipedia

JUJU(ジュジュ、1976年2月14日 - )は、日本の歌手。ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズ所属。身長166cm。

人物

広島県生まれ。12歳でジャズシンガーを志し、18歳で単身渡米。ジャズを始めR&B、ヒップホップ、ソウルといったニューヨークの音を吸収し独自性を確立。ストリートでの活動が噂となり、日本国内のほぼ全てのメジャーレーベルからデビューのオファーを受けるが、自らの音楽性の追求の為、さらに2年近くニューヨークで活動を継続。2004年、シングル「光の中へ」でメジャーデビューを果たす。

その卓越したトーク力や女性をターゲットにした作品や商品とのタイアップやコラボ、自身のブランドを運営するなどスタイリッシュなイメージにより、20代〜30代の女性を中心に高い支持を受けている。

J-POPファンから好まれるバラードだけでなく、ジャズからヒップホップ、ハウス、ソウル、R&B、EDM、歌謡スタイルなどまで幅広い音楽性を持ち、ほかのアーティストとのコラボも盛んに行っている。特にジャズへの思い入れは強く、ジャズシンガーへ憧れを抱き、「JAZZは人生の教科書」と語っている。またポップスと並行してジャズをテーマにした活動も継続している。

尊敬する歌手はサラ・ヴォーン、元ディー・ライトのレディ・ミス・キアー、そしてキャロン・ウィーラーの3人で、冗談交じりで「機会があったら彼女たちと声帯を取り替えたい」と話すほど。

好きな日本人アーティストは松任谷由実で、本人曰く「マニアって言っていいくらい大好き」。「日本の音楽といえばユーミン」とも語っている。その後、プライベートでも交流を持つようになった。

芸名の由来は、ウェイン・ショーターのアルバム『JuJu』から。2000年、翌日までにシンガー名を決めなくてはいけない時にニューヨークの路上で売られていたカセットテープの中に当時将来への不安を紛らわすために精神安定剤代わりに聴いていた『JuJu』を見つけ、天の声だと思ってそれにあやかることにした。

本名は一応非公表ということになっているが、いくつかのテレビ番組に出演した際に、名字は「園田」で名前は「淳」(読みは「ジュン」)であることを明かしている。また生年も同様に非公表で、テレビ番組などでは「永遠の100歳」を自称するが、こちらも自身のテレビ番組中での発言により1976年生まれであることが判明している。

デビュー後に出したシングル2枚が全く売れず、契約でももめて歌手生命が終わりそうだった2005年、制作チームに入っていた音楽プロデューサーの川口大輔にそれまでの歌い方を否定される。当時のJUJUは子音を立てたりアドリブを入れたり強いビブラートをかけたりというジャズなどの影響を受けた歌い方であったが、川口には邦楽だとそれでは日本語が濁って届かないのではっきりと発音するように言われる。それまでの自分を全否定されたような気分になったが、アドバイス通りに歌ったバージョンをそれまでのものと聞き比べた結果、川口の言葉が正しいとわかった。そして自らを振り返ったところ、ジャズ以外の音楽も好きな自分は色々なジャンルの曲を歌うただの歌手になりたいのだと思い、「ジャズシンガーになりたい」という夢を一旦封印することにした。以後、日本語を大切にする歌い方に変えたところ、3rdシングル「奇跡を望むなら...」がヒットした。

2011年、ジャズの名門ブルーノート東京で初めて念願のジャズスタイルでのライブを行い、初のジャズ・カバーアルバムをリリースをした際には、歌い方を以前のものに戻した。

来歴

幼少期、歌ったり踊ったりするのが好きな大人たちに囲まれて育つ。叔父は演歌、叔母はジャズやシャンソンやムード歌謡、その下の叔母はイタリアっぽい音楽、母はディスコミュージックという具合に、皆それぞれが好きな音楽を勝手に聴いている環境だったことがその後のJUJUに大きな影響を与える。初めて人前で歌ったのは4歳の時、曲は細川たかしの「北酒場」で、これをきっかけに歌手を目指すことになった。

小学校6年の12歳のときに空前のイタロ・ハウスブームがあり、そこからクラブ・ミュージックに傾倒して高校生のときはハウスとヒップホップに夢中になる。京都府で過ごした学生時代にDJなどの音楽活動を始める。

18歳の時に観光で訪れたニューヨークを好きになり、半年後に大学に進学する代わりにアメリカに行かせてもらう。

ニューヨーク仕込みの洗練された歌唱スタイルが話題を呼び、国内のほぼすべてのレコード会社からデビューのオファーを受ける。また現地で出会った作家のE-3やDJ HIROnycらと作り始めた音楽作品が日本で評判を呼び始め、デビュー前には映画『凶気の桜』の主題歌制作に協力する。

2003年、ソニーとアルバムを7枚出すという契約を結ぶ。

2004年、シングル「光の中へ」でメジャーデビュー。しかし思ったよりセールスがふるわず、以降の2年間は全てパッケージ作品のリリースを凍結。後にこの2年間を「出し続けて消費されるのが嫌だったんですね。アマチュアの世界ではうまい人が偉いけど、プロの世界では売れている人が偉い。じゃあ売れる音楽ってなんだろうって、ずっと模索し続けた2年間だった」と振り返っている。


 

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