お得な公演チケットサイト Confetti(カンフェティ)

カンフェティ創刊14周年

エフゲニー・プルシェンコ



※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube検索等を行い、
その結果を自動的に取得・表示しています。


 

Wikipedia

エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ(ロシア語: Евге?ний Ви?кторович Плю?щенко ?発音 英語: Evgeni Viktorovich Plushenko、 ロシア語ラテン翻字: Yevgeniy Viktorovich Plyushchenko、1982年11月3日 - )は、ロシアの男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。2006年トリノオリンピック金メダリスト。2002年ソルトレークシティオリンピック及び2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。2014年ソチオリンピック団体戦金メダリスト。世界選手権優勝3回、欧州選手権優勝7回、グランプリファイナル優勝4回。グランプリシリーズ通算22勝。ロシア連邦功労スポーツマスター。ロシア人名愛称ではジェーニャЖеня)。名字はPLUSHENKOの他にPLYUSHCHENKOと表記されることもあり、オリンピックの際にはどちらも使われている。旧採点、新採点の両方でオリンピックメダルを手に入れた唯一の男子フィギュアスケート選手である。

競技歴

幼少期

両親が出稼ぎをしていたハバロフスク地方の病院で誕生。父親のヴィクトールはウクライナのドネツィク生まれ、母親のタチアナはボルゴグラード生まれ。プルシェンコが2歳の時にボルゴグラードに移住した。

1987年2月25日、4歳の時に母の友人の娘がやらないからという事でスケート靴を譲り受けてフィギュアスケートを習い始める。7歳のときサマーラで行われた全ソビエト規模のノービス競技会クリスタルスケート で初優勝。競争相手は全員10 - 11歳の少年たちで、最年少での優勝だった。11歳の時にリンクが閉鎖され前のコーチのミハイル・マコヴィーエフの紹介でアレクセイ・ミーシンに見出され、単身でサンクトペテルブルクへ移住。後に母親など家族も移住する。

プルシェンコはこの幼少期の経歴ゆえソビエトシステムの最後の遺産とも言われる。ソビエト連邦など社会主義国では、オリンピックは共産主義の優位性を西側諸国に示す場として、プロパガンダに利用された。ソ連各地から選ばれた素質ある子供たちは、時に幼い頃から家族と離され、必要な全てを国から与えられ、優秀な指導陣のもと英才教育を施された。しかしこのシステムは1991年末のソ連崩壊によって瓦解。当時のロシア経済は混乱を極め給料の遅配も相次いだため、指導陣は転職ないし海外で働くことを余儀なくされた。また経営が立ちゆかなくなった訓練施設は次々売却されるなどした。プルシェンコやマキシム・マリニンらが所属していたヴォルゴグラードのリンクも、1993年に自動車ディーラーに売却され閉鎖された。2006年のトリノ五輪に出場した選手団がこのソビエト時代のスポーツ英才児教育で発掘された最後の世代であり、彼らが五輪後に第一線から退いたことが、トリノ五輪後のロシアの国際大会での成績低迷の原因とされている。

ジュニア時代

当時ミーシンのグループは1994年リレハンメルオリンピックで金メダリストとなるアレクセイ・ウルマノフや、のちに激しいライバル対決を繰り広げる事になるアレクセイ・ヤグディンも所属しているエリート集団だった。グループに加わった当初こそミーシンの関心も低かったもののここでも頭角を現しミーシンの関心を獲得。13歳になるとシニアの大会にも参加するようになる。

初出場した1996年世界ジュニア選手権 では出場選手中最年少で6位入賞。翌年の1997年世界ジュニア選手権 では14歳で優勝。

ソルトレーク五輪(1998 - 2002)まで

1997/1998シーズンからシニアの大会に本格参戦。ISUグランプリシリーズのスケートアメリカとロシア杯、また欧州選手権でも初出場で2位になるなど大健闘。1998年長野オリンピック金メダリストイリヤ・クーリックの棄権により急遽初出場することとなった1998年世界選手権では、15歳にして3位表彰台にのぼり華々しいデビューを飾った。

1998/1999シーズンからは主要な競技会で優勝を重ねるようになり、1999年世界選手権では前年度より1つ順位を上げ2位になる。

1999/2000シーズンは欧州選手権まですべて優勝、ロシア選手権と欧州選手権で当時の世界王者ヤグディン相手に2連勝を果たした。だが、優勝候補の筆頭に挙げられて臨んだ世界選手権ではフリーで大崩れし、まさかの4位に終わった。

翌2001年世界選手権では前回王者のヤグディンを抑え初優勝、その他のタイトルも総なめにした。

勢いはこのまま続くかと思われたが、2001/2002シーズンのグランプリファイナルでヤグディンに敗北すると、これに危機感を抱いたプルシェンコチームは急遽フリープログラムをビゼーのカルメンに変更。約1ヵ月後に迫った2002年ソルトレークシティオリンピックのため猛練習を重ねプログラムを完成させる。しかしプルシェンコはこの練習により右足首を負傷した。迎えたオリンピック本番ではショートプログラム冒頭の4回転トウループで「まさかの」転倒、4位でフリースケーティングに臨むこととなった。自力優勝の可能性が消え背水の陣で臨んだフリーでは、4回転トウループ - 3回転トウループ - 3回転ループという超高難易度のコンビネーションジャンプに挑戦(3つ目のループはステップアウト)、また3回転アクセル -ハーフループ- 3回転フリップというこちらも超高難易度のシークエンスジャンプを成功させるなどして追い上げ2位に浮上、銀メダルに輝く。直後の2002年世界選手権は右足首の怪我の悪化を理由に欠場した。


 

取扱中の公演・チケット情報

現在取り扱い中の公演はありません。