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桂 文珍(かつら ぶんちん、1948年〈昭和23年〉12月10日 - )は、日本の落語家、タレント、司会者。出囃子は『圓馬囃子』。
兵庫県多紀郡篠山町(現:丹波篠山市)福井出身。血液型はA型。2人兄妹の長男(妹1人)。吉本興業所属。大芋小学校、東雲中学校(現:篠山東中学校)、篠山鳳鳴高校を経て、大阪産業大学卒。「桂珍幻彩」の名で高座に上がることもある。
香港を訪問した後、ラジオ番組などで「桂文珍」の漢字を広東語で読んだ「クワイマンツアン」と自己紹介していたこともある。
実家は農家。幼い頃はパイロットに憧れていたが、大学に入学してすぐに父が病気で倒れ、仕送りがストップし、ガソリンスタンドでの住み込みのアルバイトを余儀なくされる。
大阪産業大学入学後にうめだ花月で初めて落語を聴き、大学に落語研究会を創設する。美憂亭 さろん(ビューティーサロン)と名乗る。「上方落語学生連盟」を作って他大学の研究会と交流を持ち、大学落語研究会の全国大会にも出場した(「崇徳院」を口演)。プロの落語会にも何度も足を運び、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)に惹かれる。
1969年10月に3代目桂小文枝に入門。入門の経緯については、1993年の著書で
としていたが、戸田学の著書や小佐田定雄による2013年の聞き書きでは
となっている。
当時、三枝はすでに人気を得ていたが依然として小文枝の家に住み込みだったため、自分が独り立ちできるよう弟弟子を探していたという。
当初三枝から「君は僕の次(2番弟子)やで」と言われていたが、桂きん枝(現・4代桂小文枝)が先に入門したため、3番弟子となった。1993年の著書ではきん枝の弟子入りは自分の「3日前」としているが、戸田学の著書や小佐田定雄の聞き書きではきん枝の入門は3か月前である。年齢はきん枝より上で、この入門時の経緯から、文珍はきん枝のことを「きん枝兄さん」ではなく「きん枝君」と呼んでいた。
高座名の「文珍」は習字の「文鎮」に由来する。それが決まった経緯について、文珍は1993年の著書で、
と説明していた。しかし、2013年の聞き書きにおいては、この内容を「後付け」と述べ、当初「新文枝」(しんぶんし)を小文枝から示されたが断り、次に示された「はん枝」にも「いやぁ……ちょっと」という反応を見せたところ、「『はん枝』があかんやったら『文鎮』はどや? けど金偏の『鎮』にするとちょっと重たすぎるなぁ。『珍』の字でどうや」となったのが真相であるとしている。