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隼人



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Wikipedia

隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県・宮崎県)に居住した人々。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「ハヤブサのような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも(あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。

概要

古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが、「熊襲」という言葉は『日本書紀』の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている。こうした近習の記事や、雄略天皇が亡くなり墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされるが、6世紀末や7世紀初め説もある。文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、『日本書紀』に見える682年(7世紀後半・天武天皇11年)7月の「朝貢」記事と考えられている。

服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは713年(和銅6年)の大隅国設置後にも反乱を起こしたが、720年(養老4年)に勃発した隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が、征隼人将軍大伴旅人によって翌721年に征討された後には完全に服従した。793年(延暦11年)8月にはこれまで6年に1度の「隼人の調」を廃した(『類聚国史』隼人条)。これに伴って、一般の公民と同じ調庸に置き換えられて隼人とそれ以外の百姓との間の負担の公平化を図ったと考えられる。続いて800年(延暦18年)には班田収授法が初めて実施された。元来、奥羽両国や薩摩・大隅などの「辺要国」における班田収授が遅れた理由は、班田収授には墾田の収公なども伴うために帰属した蝦夷・隼人を含めた辺要国の「百姓」の動揺を防ぐとともに彼らの墾田を保護した優遇策であった。従って、班田収授法の対象になるということは隼人にも一般の公民と同じ租庸調が課される条件が整えられたことになり、法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」の完成を意味したと考えられる。

8世紀初め、現在の鹿児島県一帯への移住民は総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定され、この推定に従うなら、(総人口6万3千人−9千人前後で)5万4千人前後が在地人=隼人と推定される(本州への移住民は含まず)。

古くから畿内に移住させられ、宮中で守護に当たるほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。特に山城国(京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京都府京田辺市には「大住」の地名が残る。律令制下においては、隼人司(衛門府、後に兵部省)が、これらを司った。

言語・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』に記述があり、合致している)。

『肥前国風土記』によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また『新唐書』によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている。

各地の隼人

阿多隼人(薩摩隼人) 
薩摩半島一帯に居住していた隼人族。薩摩国設置以前はこの一帯はアタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。『日本書紀』の682年(天武天皇11年)の記事に記される。薩摩国設置後は、『続日本紀』709年(和銅2年)で薩摩隼人の呼称が用いられる。
大隅隼人
後世、大隅郡(大隅半島北部、特に「大隅郷(現在の志布志市から曽於市大隅町)」周辺か)と呼ばれる地域に居住した部族、主領域を肝属平野とする部族であるとする説もある。『日本書紀』682年(天武天皇11年)の記事ある。
多?(たね)隼人
種子島と屋久島(多禰島)に居住した部族。702年(大宝2年)には多?の隼人、征討軍を派遣して鎮圧する事態になった。
甑隼人
甑島に居住した部族。『続日本紀』769年(神護景雲3年)の条に記事。
日向隼人

 

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