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米村 でんじろう(よねむら でんじろう、1955年〈昭和30年〉2月15日 - )は、日本のサイエンスプロデューサー。別名、米村 傳治郎、米村 伝治郎(読み同じ)。サイエンスショーの企画、演出、書籍の監修、テレビ番組の出演や監修、実験装置の開発などを手がける。元都立高校の物理教師。
千葉県市原郡加茂村に、4人兄弟の末っ子として生まれる。家は兼業農家であった。
1973年、千葉県立市原高等学校を卒業する。高校3年生の時に、父親が職場の工場で事故死したこともあって、授業料の安い国立大学を志望して受験したが、失敗した。浪人生活2年目、母親が見かねて「働いてみたらどうか」と勧め、6月から8月まで工場で40代から50代の労働者たちにまざって働いた。また9月から予備校に通うが、講義についていけずにやめた。3年目、母親に頼るのがつらくなり、新聞奨学生の募集を見て、面接を受けたが断られたこともあった。牛乳配達のアルバイトをしながら、3年目の宅浪をつづけ、1976年に東京学芸大学理科B類(物理)に合格、入学した。しかし、大学の講義でもしばしば単位を落とした。所属した研究室で当時は目新しかったパソコン用の理科教育ソフト作成を行い、この時、指導教官から賞賛をうけた。でんじろうは、「先生から褒められたのは人生で初めて。段階を踏んでやればできると自信がうまれた」と回想している。
「社会に出て働きたくない」という理由で、東京学芸大学大学院(理科教育専攻)に進学した。大学院で知り合った女性と卒業後の1982年に結婚し、米村姓を名乗る。卒業後は研究職につくことを希望し、他大学の博士課程や公務員試験を受けたが落ちたため、研究生として東京学芸大学に残る道を選んだ。教授の紹介で、自由学園の講師を務める。自由学園では、「教科書にとらわれず、思い通りに授業してもらって結構です」とアドバイスを受け、林で拾った木の枝からつくった炭とアルミ缶を使った「木炭電池」(後述)を生徒に披露するなど、実験重視の授業に取り組んだ。
自由学園で教師の面白さを知り、1984年に東京都教員採用試験を受け合格した。1985年度(昭和60年度)より、東京都立稲城高等学校に理科教師(物理)として赴任した。
稲城高校は、でんじろうによると「生徒は落ちこぼれ。授業中に漫画を読んだり、黒板に向かっている間に数人が教室を抜けたりして、とても授業にならなかった」という状況であった。また「高校進学の時期になると『あの学校は無くなってしまうらしい』という噂が中学生の間に流れるような状況であった」としている。このとき、生徒が理科に関心を持てるように、「百人おどし」(後述)の実験をしたり、野外観察に生徒たちを連れ出して、野草や木の実をビーカーで茹でて食べられるかどうかを、生徒たちが自主的に調べるように仕向けたりした授業を行った。このころ、Mr.マリックがテレビで脚光を浴びた時期であり、生徒がでんじろうに「超能力はあるのか?」と質問してくることもあった。これをヒントに授業で超能力を取り上げ、超能力について生徒に考えさせる授業方法の模索も行った。
この時期、東京学芸大学大学院の先輩で、当時、国際基督教大学高等学校で物理教師をしていた滝川洋二も、学校教育での「理科離れ」の状況に危機感を持っていた。滝川は理科離れを食い止めるためには実験による授業が重要であると考え、1986年1月に「物理教育実践検討サークル」を立ち上げた。後にサークルは「ガリレオ工房」と改称することになる。このサークルに、滝川は大学院時代の後輩であるでんじろうを誘った。滝川によると、でんじろうはガリレオ工房の定例会に毎回新しく開発した実験を持ち込み披露していた。一時期は毎月1時間程度のでんじろう講座が続くような情況であったという。
1993年4月より東京都立小金井北高等学校に赴任した。でんじろうの回顧によると「(小金井北高校は)進学校で、実験授業は大学受験の役に立たず生徒やその父母から評判が良くなかった」という。また教頭に呼び出され「君が教師になったのは間違いだ」と言われたこともあった。
このころから、でんじろうはNHK教育テレビの番組製作を手伝うようになった。「やってみようなんでも実験」では自ら出演して実験を披露するようにもなった。また、展示内容のリニューアルを計画していた科学技術館より、サイエンスショーエリアのプロデュースが依頼された。
1996年3月に都立高校教師を辞し、サイエンスプロデューサーとして独立する。同年5月にでんじろうを追ったドキュメンタリー番組「おれは日本のガリレオだ!?」がNHKで放映されると、各地の学校や科学館からの講演依頼がでんじろうのもとに殺到した。でんじろうは「最初のころは講演依頼に従って話をしていたが、講演だけでは時間がもたないため実験を取り入れ、次第に実験の比重が多くなり、アシスタントや実験装置が徐々に増え、実験の間に話を混ぜていくサイエンスライブショーの構成ができあがっていった」と述べている。
でんじろうは科学技術館の「ワークス」でサイエンスショーの実演をする一方で、地方から依頼のあったサイエンスライブショーの公演を行うようになった。1998年、科学技術館ででんじろうの実験助手を務めていたチャーリー西村などと共に、「米村でんじろうサイエンスプロダクション」を立ち上げた。2004年より、岩手大学で任期付き客員教授を務めた。2005年、愛知万博では、長久手会場日本広場内にて「日本館わくわくエネルギー教室」を監修し、自ら出演して実演実験を行った。2006年4月20日には、科学技術館を視察に訪れた内閣総理大臣小泉純一郎が、遠足で訪れていた厚木市立厚木第二小学校の小学5年生の28人と一緒にでんじろうの実験ショーに参加した。2007年9月には、NHKの番組撮影と国際協力機構(JICA)のサポートで、ケニアの中学校、孤児院などで科学実験の授業を行った。
2008年にチャーリー西村が独立したが、その後もアシスタントとして杉木優子、ジャイアン村上、市岡元気などのキャスティングでサイエンスライブショーを各地で実施している。