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稲垣 潤一(いながき じゅんいち、1953年〈昭和28年〉7月9日 - )は、日本の歌手、ミュージシャン。本名同じ。宮城県仙台市宮城野区出身、所属レーベルはユニバーサルミュージック。血液型はO型。身長173cm。
父親は東京都板橋区、母親は兵庫県神戸市出身、父が終戦後、満州からの妻の疎開先・宮城県宮崎村に引き揚げ、仙台市に移り住んだ後、潤一が誕生。仙台市立東華中学校を経て、宮城県工業高等学校卒業。
父が音楽好きで、ビートルズやエルトン・ジョンを好んで聴いており、60過ぎて自らギターを習って曲も作るという環境で育ったため、小さい頃から音楽が好きだった。最初はエレキギターのサウンドにしびれ、ギターに惹かれ、小学生の頃はホウキで真似したりとか、木を削ってギターを作ったりとかやったが、しっくりこず、中学のときに8ビートを教わって、ドラムを叩いたらすんなりできたことにより、中学でドラム・ヴォーカルを主に担当し、高校で初めてバンドを作りながら、本格的なバンド活動を始め、仙台にて「フェイセス」結成。その後、仙台のライブハウスや横須賀や立川の米軍キャンプ等で演奏を続けるうち、その歌声の良さに仙台の店でスカウトされる。
デビュー前にCMソングを歌い、「スーパーポップボーカル」というキャッチコピーで1982年1月21日に東芝EMIよりシングル「雨のリグレット」でデビュー。3枚目のシングル「ドラマティック・レイン」で自身初のTOP10入りを果たす。1986年から1989年にかけオリジナル・アルバムが4作連続1位を獲得。1992年に発売した「クリスマスキャロルの頃には」は170万枚を売上、クリスマスソングの定番として親しまれている。
元々はドラマーであり、ドラムを演奏しながら歌うことがライブやテレビ出演で見られる。ドラムはTAMAとエンドースメント契約を結んでいる。
作詞・作曲もあるが、そのレパートリーは他の作詞・作曲家提供による楽曲がほとんど。その後もシングルの表題曲はは自作していない。しかし1984年には、神田正輝のシングル「マティーニの後で」のカップリング曲の作曲を担当。
「April」(1986年、三洋電機)、「思い出のビーチクラブ」(1987年、カナダドライ・ジンジャーエール)、「セブンティ・カラーズ・ガール」(1989年初春のカネボウ化粧品)、などのCMソングも数多く、テレビドラマ主題歌や番組のエンディングテーマ等も多数手掛けている。1992年と2011年にはタイアップ曲だけを収録したアルバムを発表している。
デビュー当初は、東芝EMIと契約。後にファンハウス(現:アリオラジャパン)に移籍。ファンハウス傘下前のBMGビクター・BMGジャパン傘下のair Records、テイチクエンタテインメント傘下のContinental Label・Imperial Recordsに所属。2007年、ユニバーサルミュージック・USM JAPANレーベルに移籍。なおair Records 時代を除き、Imperial Records時代までの楽曲の原盤権はフジパシフィック音楽出版(現:フジパシフィックミュージック)が管理。2008年にUSM JAPANレーベル・2009年にユニバーサル ストラテジック マーケティング ジャパンからファンハウス以前のアルバムが再発された際には、フジパシフィック音楽出版のライセンシーによりリイシューされている。
映画『アイ・ラヴ・ユー』の音楽監修も務め、主題歌・挿入歌を担当(挿入歌は、同じくテイチク所属のSALAHも担当)。
既婚だが、最初の妻とは死別している。2009年(平成21年)一般女性と再婚。同年3月14日内輪のみパーティーを済ませ、挙式も済ませている。
2006年(平成18年)には声優・長谷川杏里のデビューシングル「フラグメンツ・ブルー」の作曲を担当した。
稲垣の地元、仙台市を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスのファンクラブ名誉会員(会員No.11)であり、2007年(平成19年)3月31日のフルキャストスタジアム開幕戦(日本ハム戦)で国歌独唱を行った。
2013年にはSUPER GTのGT300クラスのGREEN TEC RACING TEAMの監督に就任した。自身も公式ライセンスを取得しており、かつてはトヨタ・アルテッツァのワンメイクレース「ネッツカップ・アルテッツァワンメイクシリーズ」等に参戦するなど、モータースポーツへの造詣が深い。
CD化されているのは、「オーシャン・ブルー」以降の作品。