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吉川 晃司(きっかわ こうじ、1965年〈昭和40年〉8月18日 - )は、日本の俳優、ロックミュージシャン・シンガーソングライターであり布袋寅泰と共に組んだCOMPLEXの元メンバーでボーカルを務めた。現在は自身が設立した株式会社アクセルミュージックエンターテイメントの代表取締役社長を務めている。
広島県安芸郡府中町出身。水分峡は何百回も行ったという。身長182cm、血液型B型、既婚者で1児あり。一方、芸能活動面では、1984年、シングル「モニカ」で歌手デビュー。「LA VIE EN ROSE」、「KISSに撃たれて眠りたい」、「VENUS 〜迷い子の未来〜」や布袋寅泰とのユニット、COMPLEXでの「BE MY BABY」などのヒット曲で知られる。
実家は原爆投下まで、現在の広島市中心部、原爆ドームと元安川を挟んで真向かいにある当時、中国地方指折りの繁華街だった「中島地区」で料亭、吉川旅館を営んでいた。吉川の祖母が営んでいたが、戦況の悪化に伴いこれを船本家に売って旅館を譲り、原爆投下1か月前に疎開し難を逃れたが、投下直後に父親は入市したため「入市被爆」が認められ吉川自身も被爆二世に当たる。父は若いころ、京都太秦で大部屋俳優をしていて、家業を継ぐため俳優を諦め板前になったが、店が火事になり廃業し、その後喫茶店の経営やタクシー運転手(宇品タクシー。熊平製作所近くにあった。現在は廃業)・管理職などをした。
幼少期は千葉真一と倉田保昭の大ファンで、彼らの活躍に憧れを抱いていた。父はビートルズしか聴かない人で、ステレオの前に座らされて無理やりビートルズを聴かされた。府中町立府中小学校出身宇梶剛士も2年まで在学で先輩、竹原慎二は後輩になる。水泳を始めたのは修道中学一年の夏。それまではサッカーをやっていたが、広島の夏が暑くて水にでも入れば涼しいかなと思っていたら、プールがきらきら輝いて見えた。誰もいないプールに海パンが落ちていて、そのまま履いて水に漬かっていたら、中高一貫校で、高校生の主将がちょうど来て、『お前、何しとんじゃ!』『今日から水泳部!』と強制的に競泳と一緒の水泳部に入れられた。中学校の時から水球の選手となり、修道高等学校時代には一年時に世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれ、最年少日本代表としてイタリア・エジプト遠征にも参加した。
広島県広島市では名の知られた進学校である修道中学校を受験した理由は、「制服の袖の部分に1本の白線があり、それがカッコよかったから」と述べている。合格したものの授業についていけず、いきなり落ちこぼれたとメディアでも語っている。しかも、いざ入学するとその1本の白線で修道中学校の生徒だと判ってしまい、悪いことができなかったため嫌いになってしまった。
音楽にも興味を持ち、高校入学前の春休みにカキの冷凍工場や新聞配達のアルバイトで得た金でエレキギターを買う。高校一年の秋に、バンド活動を始め、高校二年の10月、同じ水泳部だった酒井麿に誘われ、ロックバンド(EIGHT CITY'S FISH BAND(八つの街の魚) / 通称:はまちバンド)に加入。男女混合7人(男子5人、女子2人)のバンド形態で、担当はサイドギターとボーカル。オリジナル曲は4曲と少なかったが地元を中心に自主コンサートを行い、コンテストにも出場した。歌唱力、ルックス、パフォーマンスは求心力があり、郵便貯金ホールや広島見真講堂で行うライブはアマチュアバンドながらいつも大盛況であった。しかしメンバーの音楽の好みがバラバラで、みんな呆れてだんだんお客が集まらなくなった。高校2年生の時に佐野元春のコンサートを見てカルチャーショックを受け、大学進学を取り止めて音楽一本に絞って勝負する決意を固めた。「音楽の世界でビッグスターになる」とその後のサクセスストーリーを考えた吉川は「まずはスカウトされること」と考えたが、アマチュアバンドで有名になっていたとはいえ地方都市の一角(吉川曰く「田舎」)でのことであり、そうそうスカウトされる筈も無い。シビれを切らして自ら渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」と手紙を書いて送りつけた。なお、なぜナベプロかといえば「沢田研二、アン・ルイスなどが当時所属していたのがナベプロで、ここがいいな」と言い(吉川の回想)、他のプロダクションは知らなかった。
渡辺プロの関係者が、高松市の松本明子を見に行った帰りに、本当に会いに来て、その後の数度のオーディションを経て、プロダクションと正式に契約を交わした。しかし、教師、両親や周囲から芸能界入りを猛反対された。特に父親からは「芸能界ってのは猿まわしだ。お前は東京で猿になるのか」と言われたが、「いつか自分で動いてやる」と決意を表明して説き伏せた。大学進学を断念することを惜しむ声も多かった(世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれた実績もあり、水球の推薦で慶應義塾大学に特待生として入学できる道が開かれていたため)。事務所側はデビューは高校を卒業してからと考えていたが、吉川本人が「今すぐにでも」と強い意志を示したため、1983年4月、高校3年に進級する直前に中退して上京することになった。修道中学校を経て修道高等学校2年時に中退。所属していたバンド・EIGHT CITYS FISH BANDは1983年4月3日に見真講堂で単独ラストコンサートを行い、東京に送り出している(DVD『LIVE archives 25』にその一コマが収録されている)。
勢い勇んで上京したものの、他にもスカウトを受けて事務所のある東京に呼ばれた若者が大勢おり、「寮にもう5年います」みたいなのが平気でいる腐ったリンゴの溜まり場みたいな世界。スクールメイツと歌やダンスを練習する日々が暫く続いたが、「コイツらと一緒にいたらダメだ」と悟り、寮には入らず、レッスンもシカトして毎晩ディスコに通い、踊りを覚えた。上京すればすぐに(1983年6月)ギターの弾き語りでソロデビュー出来るものと思っていたが叶わず、当時流行の顔でもないし、社員の一部には「アイツはダメだ」と烙印を押されていて、いつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし社長室に行き社長に直談判したところ、その勝気で怖いもの知らずな度胸を渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなった。
実際、渡辺プロは「10年に1度の逸材」と高く評価しており、凋落していたナベプロの起死回生のため、社長自らが音頭をとってデビューのためのプロジェクト・チームを編成するほどの社運を賭けた力の入れようだった。当時の渡辺プロは育ててきた人気タレントや有能なスタッフたちが相次いで独立し、業績が急激に悪化し始めており、渡辺社長より「会社を立て直せるような男性タレントを発掘しろ」と指令が出た。軍司貞則著『ナベプロ帝国の興亡』(文藝春秋、1995年)によると、その当時渡辺プロの金庫に3億円の現金しかなく、渡辺晋は30人ほどのスタッフとの会議において、その金で売り出す方法を捻り出せ、と迫ったといわれる。映画と歌の同時デビューもナベプロの肝いりで実現。渡辺晋が手掛けた最後のタレントになった。吉川を映画で売り出そうとした映画の時代に育った渡辺社長のアイデアを若いスタッフはせせら笑った、渡辺社長が押し切ったといわれる。売り出しのプロジェクトのリーダーだった森本精人渡辺プロ元マネージャーは「吉川は身長が高いし、水球選手だったからスタイルもいい。社長と『映画で、白い煙の中から長い脚を蹴って飛び出してきたらカッコいいよね』と話していて、そのイメージでできたのがデビュー作の主演映画『すかんぴんウォーク』と、主題歌の『モニカ』です」と述べている。『すかんぴんウォーク』製作費1億円、コンサート費用1500万円、テレビスポット2000万円、有線放送スポット400万円、レコード宣伝費1000万円と宣伝費の投下額が莫大で、当時の芸能界でも話題を呼んだ。やっかみも手伝って、吉川のレコードはレコード会社やプロダクションが組織を動員して買い取りをしているのではないかという噂まで出た。渡辺社長のイレ込みはハンパではなく、スポーツ新聞の取材にも一緒に写真に収まるし、社長自らプロデューサーとして何が何でもスターにしようという意気込みがマスメディアにも伝わった。失敗は許されないという意識をナベプロの社員も強く持った。同じ事務所の大沢誉志幸が「渡辺プロは総力を挙げ吉川を売り出すからお前にかける金はない」とナベプロのスタッフから言われたという逸話も残る。
シングルレコード 「モニカ」と主演映画『すかんぴんウォーク』の両方で芸能界デビューするという手法が取られたが、映画の製作発表会見は1983年9月21日に渋谷のライブハウス「LIVE INN」で行われ、マスメディアにはこれがほぼ初お披露目だった。業界ではナベプロから凄い新人が出ると噂が先行していたため、女性ジャーナリストの間では、どんな美少年アイドルが出て来るのだろう、と期待していたら、何の説明もなくバックバンドを従えて出てきたのは、イメージとはまるで正反対のイモっぽく、広島からの産地直送のスポーツ少年で、キツネにつままれた気分となり「ヘエ〜この子がそうなんだ」と肩透かしを喰わされた。吉見佑子はナベプロで紹介された吉川を見て「松田優作のNGみたいなお兄ちゃんね。こんな子デビューさせるの?」と言ったという。しかしながら吉見は吉川のファンクラブ担当になり、宣伝にも関与し、「裸がヴェルサーチ」とキャッチコピーを付けた。