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グードルン・パウゼヴァング(Gudrun Pausewang、1928年3月3日−2020年1月23日)は、ドイツの女流作家である。本名はグードルン・ヴィルケ(Gudrun Wilcke)。1928年にボヘミアのヴィッヒシュタドル(Wichstadl、現在のチェコ・ムラドコウ Mladkov)に生まれた。
パウゼヴァングは、東部ボヘミアで1928年に誕生した。6人子のなかの長女であった。初等教育を終えた後、女子中等学校(女子ギムナジウム)に通った。父親は、彼女が15歳のとき、第二次世界大戦中に亡くなった。17歳のときに大戦が終了するや、彼女は家族と共に西ドイツに逃亡した。パウゼヴァングはヘッセン州のヴィースバーデンにあって勉学を続け、1948年にアビトゥア資格を得た。教育学を学び、教職に就いた。
1956年以降、チリのドイツ学校(Deutsche Auslandsschule)で教鞭を取り、更に5年後には、ヴェネズエラにおいても教えた。彼女は7年間、南アメリカで暮らし、この期間に、アマゾン川流域地帯(Amazonie)、フエゴ島、ペルー、ボリビア、コロンビア、メキシコ、そして北アメリカに旅行した。
1963年にドイツに帰国し、小学校で教える傍ら、ドイツの言語と文明についての研究を再開した。5年後、彼女は夫であるペーテル・ヴィルケ(Peter Wilcke)と共にコロンビアに出かけた。最終的にパウゼヴァングは、1972年に、2歳になる息子と共にドイツに帰国した。それ以降、彼女はヘッセン州のシュリッツに住居を定めた。シュリッツは、彼女の作品、『みえない雲』(Die Wolke)や『最後の子どもたち』(de:Die letzten Kinder von Schewenborn)の話の舞台となっている。定年退職するまで、教師としてこの地で働いた。
パウゼヴァングの初期の作品は、とりわけ逃亡をめぐる小説であった。後年、彼女は、例えば核の脅威などの社会的な話題に拘わった。ラテン・アメリカにあって意識するようになった第三世界の問題に関心を抱いた。更に、平和と環境保護(fr:Conservation de la nature)の運動に関与した。今日、もっとも議論の対象となっている彼女の作品の幾つかにおいて、パウゼヴァングは、社会の「エコシード(環境絶滅、fr:?cocide)」について語り、また核エネルギーがもたらす危険性を、国家社会主義と比較している。1989年に教職を退職。
パウゼヴァングは全部で86冊の本を著し、平和や環境保護をめぐる主題を多く扱っているが、1980年代の平和主義者やエコロジスト(fr:?cologiste)の領域で執筆された作品は、これらの運動の時代精神の特徴を備えており、今日では、しばしば、イデオロギー的であると考えられている。