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沢田研二

沢田研二



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Wikipedia

沢田 研二(さわだ けんじ、1948年〈昭和23年〉6月25日 - )は、日本の歌手、俳優、ソングライター。ザ・タイガース及び、PYGのボーカル。本名:澤田 研二(読み同じ)。身長171cm。血液型A型。

両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現・鳥取市)生まれで京都府京都市育ち。ニックネームは『ジュリー』。妻は女優の田中裕子。義弟は俳優の田中隆三。前妻は歌手の伊藤エミ。

1960年代後半のグループ・サウンズ全盛期から最前線で活躍し、ソロとしてのシングル総売上は1,241万枚を記録。1982年から1991年までの9年間は歴代1位の座を保つ。アルバムも合わせた総売上は約1572万枚。ザ・タイガース、PYG時代も含めたシングルの総売上は1,668万枚に上る。

来歴

生い立ち

1948年6月25日、両親の実家がある鳥取県岩美郡津ノ井村(現:鳥取市津ノ井)で出生。戸籍上の名前では、“研”という文字の右下に点がある。父親は若い頃、役者を目指し長谷川一夫の内弟子だったことがあり、美男は親譲りであった。父はその後、映画のスチールカメラマンになって衣笠貞之助宅に夫婦で同居したことがある。沢田が生まれた頃は、父は舞鶴市内の火薬研究所の取引先に勤務しており、二番目の子だったため「研二」と命名された。兄妹がいる次男である。3歳まで鳥取で育ち、父が京都左京区浄土寺東田町に家を建てたため、以降は京都の同地で育った。京都市立第三錦林小学校、同・岡崎中学校卒業後、1964年4月、京都府立鴨沂高等学校入学、後に同校を中退。中学時代は"ケンカのサワケン"と洛東の学校に名を響かせるワルだった。

なお、同じ高校の同学年に女優の大信田礼子がいた。少年時代はプロ野球選手に憧れ、選手では川上哲治、藤尾茂が好きだった。中学では野球部のキャプテンを務め、ポジションは一塁手。京都市大会で4位になり、京都府大会に進出したが、ここで負けたことで野球選手の夢は諦めたという。高校では空手部に所属した。

ザ・タイガース期

京都のダンス喫茶「田園」でドアボーイのアルバイトをしている時にサンダースに声をかけられ、17歳でローディー兼ボーカリストになった。そのステージを見たサリーとプレイボーイズサリー(岸部修三=現・岸部一徳)からリード・ボーカルとして誘われ、翌年の元日にサリーとプレイボーイズに正式加入、グループ名は「ファニーズ」と改めた。

ファニーズは、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演した際に、上条英男、スパイダクション(現・田辺エージェンシー)、そして共演したロック歌手の内田裕也からも声をかけられた。しかし具体的な話が進まなかったため、当時リーダーであった瞳みのるが東京・代々木上原の内田裕也の愛人宅を訪ね、瞳の熱意の甲斐あってメンバー全員が渡辺プロと契約。上京後、ザ・ヒットパレードのプロデューサーであったすぎやまこういちによって、テレビ番組の出演直前に「ザ・タイガース」と新たに名付けられる。この時、内田に『沢ノ井謙』と言う芸名を勧められたが、本名でやりたいと拒否している。

1967年2月5日にシングル「僕のマリー」でデビュー。セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気が爆発し、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。とりわけ端整な容姿を持ち、貴公子的存在として10代の少女や20代の女性を中心に熱狂的な人気を獲得した。

1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート。なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪スタヂアム、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、京セラドーム大阪で開催している。

1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌の一つ『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。

1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」でグループは解散した。

PYG期


 

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