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伊東四朗



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Wikipedia

伊東 四朗(いとう しろう、1937年6月15日 - )は日本のコメディアン、俳優、タレント、司会者。日本喜劇人協会相談役。オルテ企画所属。現在の東京都台東区台東出身。血液型はO型。5人兄弟(兄2人、姉1人、妹1人)の三男。兄は教育評論家の伊藤竹三。息子は俳優・タレントの伊東孝明。

来歴

生い立ち

1937年6月15日、東京府下谷区竹町(現在の台東区台東)にて、服地商の子として生まれる。父親は静岡県榛原郡相良町(現在の牧之原市)、母親は同県掛川市の出身。男、女、男、男、女の5人きょうだいの上から4番目の三男が伊東。戦時中は母親の実家のある掛川市に疎開した。

子供の頃に工場跡地のトロッコで遊んでいたところ、トロッコが暴走し転倒し、車輪の一部が伊東の左頬を貫通したというエピソードが存在する。

石井均一座

東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業後は就職を希望し数多くの面接を受けるも、目付きが悪い人相が悪いことを理由に不採用が続き、伝手を頼って紹介された企業も入社試験を受けたが採用には至らなかった。1958年伊東は早稲田大学生協職員に採用され、時間が出来ると観劇に様々な場所へ赴いた。その中で新宿フランス座の座付き俳優だった石井均は同じくこの年に劇団「笑う仲間」を旗揚げ、この舞台を見に足繁く通っていたため一座の役者が伊東の顔を憶えるほどになっていた。それらの経緯もあり、石井一座の役者から「君も(舞台で)やってみないか?」と誘われ、石井一座に参加。「笑う仲間」はもう一人の共同主宰者と石井の仲違いから数か月で瓦解「石井均一座」として再出発し新たに財津一郎(当時は財津肇メ)らが加わった。

最初の芸名は、師匠の石井均に「いとうにしよう」と言われたことから「伊藤証(いとうしょう)」だったが(「一等賞」をもじって名付けられたとの説もある)、ポスターなどに名前が連なる時に「名前が一文字なため、先輩より目立つ。お前も2文字にしろ(→四朗)」ということで「伊東四朗」と改名した。

てんぷくトリオ

石井一座は、浅草の松竹演芸場や新宿の新宿松竹文化演芸場を拠点に人気となる。石井に追随した戸塚睦夫も新宿フランス座々付でその剣劇や軽演劇仲間であった三波伸介とは夜間キャバレーの営業に出ていた(三波戸塚コンビ)。このステージ営業はある芸能事務所が石井をスカウトし、石井は戸塚を誘い二人で開始(石井戸塚コンビ)、その後石井は劇団旗揚から多忙を極め時間上の都合から三波にこのコンビ営業を移譲した経緯があった。引き継いだ三波はフランス劇場の座付で残り、石井の劇団に移った戸塚とはこの夜スケジュールに間に合わない事態が発生すると、戸塚はその都度に同じ座員だった伊東に声を掛けてこのキャバレー営業の相手代役に仕立て「(にせ)三波伸介」として急場を凌いでいたが、三波は1960年初頭に失踪(その後大阪に行ったことが判明する。)、伊東は「三波」の名でそのまま夜の代役営業を余儀なくされ、約一年余に渡り三波の帰京まで続けた。伊東はその代役期間にキャバレー従業員達とは顔馴染みになりステージも好評で、三波はコンビの復帰に際して伊東との交代を避け事務所には三人になったことを報告した。営業先のキャバレーショー司会者にコンビからトリオ再編になったことを告げる挨拶では、芸名「三波伸介」の扱いから「本当は伊東四朗、本当の三波伸介、本当に戸塚睦夫」と幾分非常識な伊東の改名紹介も兼ねた(三波戸塚伊東トリオ)。やがて石井一座は1961年に解散し、伊東と戸塚はこちらを主点に置くようになったが(途中「三波戸塚伊東トリオ」から「ぐうたらトリオ」に改名)、三波はこの夜の仕事とは別に個人単独の仕事を求め活動しテレビ出演の機会を掴み、その繋がりからトリオも1962年、正式にてんぷくトリオ(当初の「ぐうたらトリオ」から改名)としてテレビや一般の舞台へと進出した。伊東の映画デビュー作は、ニュー東映東京『カメラ・トップ屋 お嬢さんが狙ってる/お色気無手勝流』(1961年、小石栄一監督)。トリオブームの中堅として素地の軽演劇経験を生かし、コントなどで舞台やテレビで徐々に人気となり、三波のギャグ「びっくりしたなぁ、もぅ」が大当たりして、茶の間の人気お笑いグループとしての地位を確立した。てんぷくトリオが世に出るきっかけの基は三波個人(ソロ)活動にあり、三波はトリオの活動に重点を置いてはいたが、平行する個人活動の都合上、トリオの知名度や人気を利用して戸塚と伊東に二人か個別の活動を促していた。これを受けて努力家の伊東はダンスや楽器の練習などで芸を磨き、映画監督の市川崑は伊東を「てんぷくトリオの中の一番若くて一番やせている人。演技開眼したらしく、からだとセリフのタイミングが見事。おもしろい。」と1968年に期待する新進として挙げていた。

1970年頃、『笑点』の札幌での収録において、当時司会の前田武彦が荒天のため収録場所に到着できず、急遽代理として三波伸介が司会をしたことがあった(三波は後に正式な司会に抜擢)。その際、座布団運びを特別に伊東が務めたことに起因して、伊東が正式な座布団運びに起用される可能性もあったというエピソードがある。

1972年から毎週日曜日に、三波らと共に出演していたNHKの『お笑いオンステージ』の1コーナー「てんぷく笑劇場」での活躍が代表的である。1973年に戸塚睦夫が42歳で死去し、てんぷくトリオの活動に困難が生じるも、三波と2人で「てんぷく集団」として活動し、引き続き“てんぷく”の名を名乗ったが、次第にそれぞれの個人活動へシフトしている。

電線マン

1975年以降、三波の意向で「てんぷく」名での活動を抑制した頃、小松政夫との共演が話題になり、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや「電線音頭」でのベンジャミン伊東、『笑って!笑って!!60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東の発案である。


 

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