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蛭子能収



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Wikipedia

蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、タレント、エッセイスト、ギャンブラー、俳優、ナレーター、映画監督。ファザーズコーポレーション所属。

概要

熊本県天草市生まれ、長崎県長崎市育ち。長崎商業高等学校卒業後、地元の看板店に就職するも、つげ義春の『ねじ式』に衝撃を受けて1970年に上京し、看板屋・ちり紙交換・ダスキンのセールスマンなどの職を経て青林堂に漫画を持ち込み『ガロ』初代編集長の長井勝一に才能を見出される。

『月刊漫画ガロ』(青林堂)1973年8月号掲載の入選作「パチンコ」で漫画家デビュー。その後、3年間の休筆期間を経て伝説的編集者の高杉弾と山崎春美の依頼により1979年に伝説的自販機本『Jam』(エルシー企画)でプロの商業漫画家として再デビューする。その後、自販機本『Jam』『HEAVEN』での執筆を契機に官能劇画誌などの媒体にも進出し、アンダーグラウンドなエロ本を中心に数多くのエロ劇画や不条理漫画を発表する。以来特異な作風で注目を集め、ヘタウマ漫画家としての地位を確立する。

1981年には初単行本『地獄に堕ちた教師ども』を青林堂より上梓、これを機にダスキンを退社して漫画家として独立する。1980年代後半からは柄本明との出会いを契機として芸能界でのタレント・俳優活動に比重を移し、劇団東京乾電池の公演に出演して以降『笑っていいとも!』(フジテレビ)へのレギュラー出演やテレビドラマ『教師びんびん物語II』(フジテレビ)への出演を皮切りに数多くのテレビ番組に出演している。また芸能活動と並行して狂気と毒をはらんだ前衛的な漫画作品を精力的に発表し続け、日本漫画に新たな表現の地平を切り開く。現在は青林工藝舎の漫画雑誌『アックス』にて特殊漫画家の根本敬と共に「隔月蛭子劇画プロダクション社内報」を連載中。

主な著書に漫画で『地獄に堕ちた教師ども』『私はバカになりたい』『私の彼は意味がない』『私は何も考えない』『なんとなくピンピン』『家族天国』『蛭子能収コレクション』、エッセイで『正直エビス』『ヘタウマな愛』『こんなオレでも働けた』『ひとりぼっちを笑うな』『蛭子能収のゆるゆる人生相談』などがある。

経歴

生い立ち

1947年(昭和22年)10月21日、熊本県牛深市(現天草市)生まれ、長崎県長崎市戸町育ち。5歳上の兄と8歳上の姉がいる末っ子。

少年時代は貸本劇画誌『影』や『街』を愛読しており、山森ススムや辰巳ヨシヒロの劇画を好んで読んでいた。映画にも関心を持ち、勅使河原宏監督の『砂の女』など前衛映画も進んで鑑賞した。

中学2年生の時に、不良グループに強制的に入らされ、いじめを受けていた。使い走りや持参した弁当をご飯と梅干しだけの日の丸弁当に無理矢理交換させられたり、学校で事件が起こると濡れ衣を着せられていた。家に帰るとノートに嫌ないじめっ子を殺す漫画をひたすら描いて、学校の不満などを発散させていたという。この頃の将来の夢は「どこかの会社の事務員になること」であった。

長崎商業高等学校時代は兄の勧めで美術クラブに所属する。そこで初めてグラフィックデザインに出会い、横尾忠則、宇野亜喜良、粟津潔、亀倉雄策、佐伯俊男に大きな影響を受ける。グラフィックデザイナー志望であったが、高校卒業後に地元の看板店に就職。当初からいずれは会社を辞めたいと思っていたと言い、看板店の同僚が主宰する漫画サークルに参加する。看板店には1965年から4年半勤務し、看板設置などをしていたが、漫画サークルで『ガロ』1968年6月増刊号「つげ義春特集」を読み『ねじ式』に感銘を受け「大阪万博を見に行く」と嘘をつき1970年に無断で上京する。

上京

上京後は出版社や映画会社に勤めようとするが高卒を理由に断られ、再び看板屋の職に就く。看板屋では事ある毎に自分を執拗に怒鳴りつける先輩のしごきに耐える寮生活を送り、憤慨した蛭子は先輩の同僚を残酷に殺す漫画を描くなど、創作活動に当時の不満をぶつけていた。この看板屋時代の先輩を残酷に殺す漫画は『ガロ』1974年3月号掲載の「仕事風景」(青林工藝舎刊 『地獄に堕ちた教師ども』に収録)にて確認できる。

またこの頃からATG(日本アート・シアター・ギルド)関連の前衛映画を数多く鑑賞し、映画監督に憧れて青山にあるシナリオセンターに1年ほど通っていた時期もあるが、「誰とも喋った記憶が無い」ほど孤独な日々を過ごしていたという。卒業制作に書いたシナリオも「起と承しかなくて転結がない」と講師に酷評される。ほどなく映画監督への道を諦め、最初から最後まで一人で作業が出来る漫画家に転向。劇画雑誌『ヤングコミック』(少年画報社)に持ち込みを行うが落選する。

1973年春、憧れの雑誌であった『ガロ』の発行元である青林堂に持ち込みを行う。投稿1作目の「狂気が彷徨う」は編集長の長井勝一にストーリーは評価されたものの、絵が技術不足であるという理由で落選する。その後、蛭子は苦手なGペンをやめて製図ペンに乗り換え、3か月後、青林堂に2作目となる原稿を持ち込み、ついに長井に才能を見出される。


 

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