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柳家喜多八

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Wikipedia

柳家 喜多八(やなぎや きたはち、1949年10月14日 - 2016年5月17日)は、東京都練馬区出身の落語家。落語協会所属の真打。本名?林 ?史。出囃子は『梅の栄』、紋は『丸に三ツ柏』。

学習院大学落語研究会出身であったことから、愛称は『殿下』。高座で自らを「柳之宮喜多八殿下」と名乗ることもあった。

芸歴

  • 1977年2月?十代目柳家小三治に入門。
  • 1978年9月?前座となる、前座名「小より」。
  • 1981年5月?二ツ目昇進、「小八」と改名。
  • 1993年9月?真打昇進、「喜多八」と改名。
  • 経歴

    • 1949年10月14日、東京都練馬区生まれ、新宿区百人町育ち。両親ともに小学校教諭という比較的厳格な家庭で育つ。師匠の十代目柳家小三治と同じく親が小学校教諭、育った場所も小三治が柏木、喜多八が百人町と隣町だったこともあり共通点が多かった。
    • 1965年4月、イギリスの全寮制名門校イートン・カレッジをモデルとして開校した東京都立秋川高等学校に第1期生として入学。
    • 1968年3月、東京都立秋川高等学校を卒業。卒業後は進路を決めあぐねていたが、高校時代の同級生ががんで急死したことをきっかけに、このままではいけないと一念発起。半年ほどの勉強で学習院大学に合格する
    • 1970年4月、学習院大学に入学。入学当初は、書道を得意としていたことから書道部に所属していたが、斜め前に落語研究会の部室があり、新入部員が入らずに焦っていた落研の先輩達の口車に乗せられ、そのまま落研に入部したことで落語に目覚める。学生時代はひたすら落語にのめりこんだ。卒業したら好きな落語が続けられなくなるという理由で、2年留年してまで落研に留まり続ける。。いっそのこと噺家になろうと思ったものの、教員である両親の反対もあり、一度は断念する。その際、落語への未練を断とうと所持していた落語関連の書籍等は全て手放してしまった。
    • 1976年3月、学習院大学を卒業。卒業後はマックスファクターに入社するが、落語を諦めきれずに3ヶ月ほどで退社。27歳を迎えようとした頃、最初に入門しようとした六代目三遊亭圓生には、高齢を理由に断られてしまった。
    • 1977年2月11日、十代目柳家小三治の自宅を訪れ、入門したい旨を伝えると親の職業を訊かれたため「教員です」と答えたところ、自分と同じ境遇だと思ったのか、すんなり入門を許されたと語っている。 初高座は前座見習いの頃、銀座中央会館「小三治独演会」でかけた道灌だった。
    • 1978年9月、前座となる。高座名「小より」を名乗る。同日に楽屋入りしたのは落語界の御曹司、林家こぶ平、柳家小太郎の2人だった。当時から、古今亭志ん八と共に上手い前座として目立っていたという。前座の頃は、落研特有のクセが抜けずに苦労したことを自ら明かしている。
    • 1981年5月、二ツ目昇進。「小八」に改名。この頃になると「落語協会に上手い二ツ目がいるらしい」と落語芸術協会でも噂になっていたが、前座時代に楽屋にいたところを初代林家三平に小三治と間違われるほど雰囲気や芸風が似ており、喜多八自身は「小三治の影武者」と言われることに悩んでいる時期でもあった。師匠の影を消すために七転八倒し、陰気に見られがちな自身の雰囲気を逆手に取ったことが、後の独自の芸風確立へとつながっていった。
    • 1993年9月、真打昇進。「喜多八」に改名。名付け親は、当時、鈴本演芸場の支配人だった富田力。古今亭菊寿、入船亭扇海、柳家はん治、三遊亭若圓歌、三代目入船亭扇蔵、四代目柳亭市馬、柳家さん生、全亭武生、古今亭志ん上と同時の大所帯昇進だった。ここから次第に個性や芸風が確立され、独自の路線を切り開いていくことになる。
    • 2014年9月15日、鈴本演芸場で「喜多八 十夜」の公演中、喜多八が「盃の殿様」を演じ終えた直後に緞帳が落下。事故現場となった高座の上にいたが、喜多八・観客ともに怪我はなかった。公演5日目の事故だったが、翌日以降も緞帳を上げたまま公演は続行された。
    • 2016年4月30日、既に体調が思わしくない中、横浜にぎわい座で「落語教育委員会 柳家喜多八、三遊亭歌武蔵、柳家喬太郎 三人会」に出演。恒例となっている開演時のコントでも気丈に死神役を演じていた。。
    • 2016年5月7日、名古屋・今池ガスホールでの「毎日落語会 春風亭一朝・柳家喜多八 二人会」に出演。「鰻の幇間」「たけのこ」の2席を演じた。地方遠征はこの日が最後となった。。
    • 2016年5月9日、鈴本演芸場5月上席夜の部でかけた「ぞめき」が生前最後の高座となった。
    • 2016年5月17日、がんのため死去。66歳没。最期の時が近づき、意識が遠のいて心拍数が低下していく中、出囃子の「梅の栄」をかけると、その音に反応するかのように、心拍数や呼吸数、すべての数値が一気にハネ上がったという。そのまま「梅の栄」を聴きながら、亡くなった。。
    • 2016年5月20日、死去の一報が落語協会公式ホームページで公表されると、アクセスが集中し、サーバーダウンにより一時繋がらない事態となった。がん闘病中とあって、最晩年はやせ細り、板付きで高座に上がるなどしていたが、寄席や落語会に精力的に出演し続けている最中の急逝であったことから、悲報の衝撃は大きく、逝去が伝えられて間もない寄席の夜席では、ネタ帳を持ったまま舞台に出てきたり、既にかかっていたネタを再びかけようとしたりと、噺家の間でも動揺が見られた。
    • 2016年6月28日、演芸情報誌「東京かわら版」は、2016(平成28)年7月号で30ページに及ぶ喜多八追悼特集を組んだ。30ページにわたる特集が組まれたのは、平成24年2月号の立川談志追悼特集以来のことだった。
    • 2016年7月11日、如水会館で「柳家喜多八お別れ会」が開かれ、600名を超える参列者が喜多八との別れを惜しんだ。

    芸風

    • 師匠の芸を受け継ぎつつ独自の芸風を確立し、柳派のネタはなんでもこなし、柳派の中堅落語家として玄人筋の評価が高かった。滑稽話も人情噺も器用にこなし、人物描写の細やかさ、独自の高い演出力に定評があった。。
    • 持ちネタの総数は260とも言われ、研究熱心、稽古熱心で、古い話や珍しい話の発掘に余念がなく、その姿勢は噺家仲間が舌を巻くほどであった。独自の演出を積極的に取り入れ、晩年まで貪欲に常に新しいネタを増やそうとしていた。TBS落語研究会の追悼回(2016年7月23日放送)で、京須偕充は「新作落語の人ではないが、この人がある種の古典落語の限界を突き破ってくれた。独特の突き破り方だから、誰にも真似できない」と評している。
    • 自称・虚弱体質。渋みのある声質ながら、とぼけた雰囲気を持ち、出囃子からけだるい雰囲気で座布団に座り、一見やる気のない枕から、いつの間にか熱演に引き込んで爆笑をさそう独自のスタイルで、広瀬和生は「それぞれの噺が持っている面白さのポテンシャルを最大に引き出す演者」と評している。体調を崩し、晩年に近づくにつれて、けだるい演出は少なくなり、話そのもので見せることが増えていった。
    • 前座時代から落語芸術協会に所属していた二代目桂小南の元へ通い、稽古をつけてもらっており、「代書屋」「いかけ屋」などを落語協会へ持ち込み、広めている。1983年9月の第25回国立名人会で「代書屋」をかけている記録が残っている。
    • 若手を育てることに尽力し、団体や所属の分け隔てなく、頼まれればすぐに誰にでも稽古をつけていた。お互いに正座をし、着物や浴衣を着て稽古する師匠が多い中、教わる側が気を使わないようにと足を崩させ、自身は正座をしてぞろっぺえな姿で稽古をつけていたことが各所で明らかにされている。

    ユニット活動

    • 入船亭扇遊、瀧川鯉昇と共に1995年から「落語睦会」を開催していた。
    • 三遊亭歌武蔵、柳家喬太郎と共に2004年からユニット「落語教育委員会」を結成しており、公演ではコントも披露していた。喜多八亡き後は、新メンバーに三遊亭兼好を迎え、ユニットは現在も継続している。
    • 五街道雲助、六代目古今亭志ん橋と共に「(もすけ)・(んきょう)・(たはち)」の頭文字を取り「九識の会」(後に「のれん噺」へ名称変更)を開催していた。

    人物

    • モットーは「清く、気だるく、美しく」。自身の眠る墓石には、生前使用していた手拭と同じ本人の筆跡で、この文字が彫られている。
    • 林家正蔵が「フランスのマルセイユにいる乞食みたいな顔の人」と言うように、ダンディで彫りの深い端正な顔立ちであったことから、男性だけでなく女性ファンも多かった。ワザオギから発売されたCD「柳家喜多八1」のジャケットでは、ハンフリー・ボガート風のトレンチコート姿という、落語CDらしからぬ出で立ちを披露しており、一部で話題になった。
    • 学習院大学書道部所属だったとあって、書の上手さには定評があり、先輩落語家の真打昇進の際には口上書き、扇子、手拭の袋の宛名書き等を頼まれることが多かった。CD「喜多八膝栗毛」のジャケットタイトルや、同じ学習院大学落語研究会出身の後輩、林家はな平の二ツ目時代の手拭に使用されていた熨斗も喜多八の手によるものである。
    • 趣味は「サイクリングに墓参り、宝塚歌劇鑑賞など」。都内近郊の寄席であればどこでも自転車で向かうほどの健脚の持ち主であった。自転車で落語家の墓参りをしたり、落語に関係する所縁の寺院を巡ったり、落語協会の2Fに所蔵されている資料を熱心に調べ上げるなど、勉強熱心だったという。
    • 宝塚が好きとあって、かつて谷中全生庵で行われていた落語協会主催の「圓朝まつり」にて、2010年8月8日、本堂の階段を宝塚の大階段に見立て、自らの名をもじって「キタナヅカ歌劇団・永遠(とわ)ちはや」と名乗り、レビューを行った。金色の派手な衣装に身を包み、背には羽をつけ、「すみれの花咲く頃」と「誰かが誰かを愛してる」の2曲を披露している。
    • かつて、高田馬場に存在した焼き鳥屋「うどの大木」を行きつけにしており、「高田馬場のうどの大木に行けば喜多八に会える」と言われていた。ファンブックである「喜多八膝栗毛」では店舗の中、「カレセン―枯れたおじさん専科」では店舗の前で撮影された写真がそれぞれ使用されている。
    • 乗馬の経験があり、学生時代に乗馬のエキストラで映画に出演したことがある。
    • 墓所は東京都港区北青山の善光寺。善光寺主催の落語会に生前よく出演していた。

    出演

    TV

    • 大江戸捜査網 - 第466話(テレビ東京、1982年11月13日)
    • 演芸特選(NHK-BS2、1997年6月21日「もぐら泥」)
    • 落語研究会
      • 「三味線栗毛」(BS-i、2002年4月20日)
      • 「睨み返し」(BS-i、2002年12月21日)
      • 「幇間のこたつ」(BS-i、2004年12月18日)

     

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