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三宅裕司



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三宅 裕司(みやけ ゆうじ、1951年〈昭和26年〉5月3日午前2時35分 - )は、日本のコメディアン、俳優、タレント、司会者。東京都千代田区神田神保町出身。血液型はB型。2人兄妹の長男。アミューズ所属。劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)座長。

経歴

生い立ち

家業は印刷業。実父は8ミリ映画の撮影を趣味に持ち、実母は松竹歌劇団(SKD)出身で日本舞踊の名人、伯母もSKDの元団員であった。母の影響で幼い頃から日本舞踊、三味線、長唄、小唄などを習う。中学時代から落語やバンドを始めた。

乳児期は、近所に住んでいた画家・いわさきちひろの乳を飲んで育つ。当時、ちひろは乳飲み子だった息子・松本猛(のちの安曇野ちひろ美術館館長)をやむなく安曇野の両親に預けていたため、母乳が途切れぬようにと三宅に乳を与えていた。また、曾祖父が「郵便制度の父」と呼ばれる前島密と兄弟であると『森田一義アワー 笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」出演時に明かし、司会のタモリに1円切手のシート(額入り)をプレゼントした。

学生時代

千代田区立一橋中学校を経て明治大学付属明治高等学校に進学し、明治大学経営学部を卒業。明治大学の同期に日本テレビ元アナウンサーの松永二三男がいる。後輩にNHKアナウンサーの石澤典夫、落語研究会でも後輩だった落語家の立川志の輔、立川談之助、立川談幸、タレントの渡辺正行がいた。クレージーキャッツの『無責任一代男』に影響され、大学時代は「カンニングしなかった試験科目はない」「チャックの筆箱の中にフランス語の試験範囲の仏文と和訳と全部書いたりね」「最初から(優・良・可の)可を狙うんです」と述懐している。

大学時代、4代目「紫紺亭志い朝」を襲名。卒業と同時に5代目を立川志の輔に譲り、その志の輔も卒業と同時に6代目を渡辺正行に譲った。

1970年代

大学卒業後は喜劇役者を目指して日本テレビタレント学院に入ったが、生徒が若い人ばかりでなじめず3か月で辞め、その後、劇団東京新喜劇に入るも一度も公演せずに劇団自体が潰れてしまう。コントグループ・少年探偵団を経て、斉藤洋介らと共に劇団大江戸新喜劇の旗揚げに参加するが、「笑いの質が違う」(三宅談)と一度も舞台に立たないまま脱退した。

その時に行動を共にした小倉久寛、八木橋修ら15人のメンバーと、1979年、劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)を旗揚げ。現在に至るまで座長を務め、一貫して東京の笑いを追求し続けている。コンセプトは「ミュージカル・アクション・コメディ」。年に一度の本公演では、結成から30年以上経った現在でも東京公演のみで1万6000人以上の観客を動員し、チケットも即完売するなど人気を博している。元劇団員には岸谷五朗、寺脇康文、水木薫、小粥よう子らがいる。

1980年代

1984年、32歳の時にニッポン放送のラジオ番組『三宅裕司のヤングパラダイス』のパーソナリティを務めたことで若者から絶大な支持を集め、全国的な知名度を一気に得る。『テレビ探偵団』や『三宅裕司のいかすバンド天国』などを皮切りに、明朗快活な雰囲気に加え、キレの良い会話と相手の話に対する反応の良さ、切り返しの巧さで、以後数々のバラエティ番組の司会を務めるようになった。石橋貴明によると、おニャン子クラブを輩出した『夕やけニャンニャン』も当初は三宅や片岡鶴太郎を中心にした「面白い番組」になる予定だったという。

1986年6月9日、のちに自身の担当番組内で「マコさま」と呼称されることになる一般女性と結婚した。

1986年にニューヨークのオフ・ブロードウェイで観劇したゴスペルミュージカル『ママ・アイ・ウォント・トゥー・シング(Mama I Want to Sing)』に感激し、所属事務所のアミューズとともに1988年の来日公演実現を強力にサポートした。その際は久保田利伸から「三宅さん! すごいミュージカルを日本に呼んでくれてありがとう!」と感謝され、2013年の再来日公演でもオフィシャルサポーターを務めている。


 

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