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笑福亭鶴光

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Wikipedia

二代目 笑福亭 鶴光(にだいめ しょうふくてい つるこ / つるこう、1948年1月18日 - )は、上方落語家、ラジオパーソナリティ。上方落語協会顧問、落語芸術協会上方真打。松竹芸能所属。本名は小林 幸男。

血液型はO型。出囃子は『春はうれしや』。桂三枝、桂春之輔と同期。別名は「エロカマキリ」「Mr.オールナイトニッポン」。2021年現在、松鶴の筆頭弟子となっている。

芸名の読み

高座名の読み方が「しょうふくていつるこ」なのは、師匠である6代目笑福亭松鶴の前々名である光鶴(こかく)の順序を逆にしたものに由来するためで、読み方もそれに倣っている。ただ「つるこ」だと言いづらく、また「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」のブレイクで「つるこう」という呼び方が一般に定着してしまったため、鶴光自身はラジオパーソナリティ・タレントとしては「つるこう」、本業の落語家としては「つるこ」で使い分けている。ただ上方落語協会公式ホームページの会員プロフィールではこの読みの通りだが、落語芸術協会公式ホームページでは「しょうふくていつるこう」となっており、また自身のブログでもタイトルを「つるこうでおま!」としている。また、自身の弟子については、上方の弟子である学光や元弟子の笑光らは「〜こ」、里光以下東京の弟子はいずれも(「光」が入らない竹三を除く)「〜こう」と読ませている。

来歴

高校卒業まで

大阪府中河内郡長吉村川辺(現:大阪市平野区)出身。生まれた時点で、母は実父と別れていた。母親は働いていたため、5歳まで平野区に住む母方の祖父に預けられて育つ。この祖父に、新世界にあった温泉演芸場(のちの新花月)に頻繁に連れられたという。6歳の時に母が歳の離れた植木職人の男性(成人した連れ子が3人いた)と再婚するが、商売気の薄い義父にはほとんど稼ぎがなく、母が内職で家計を支えていた。中学に入ると新聞配達のアルバイトを始めるも、父の過去の新聞料金未払いが発覚し、給料から返済分を差し引かれる苦労を味わう。また兄が鉄工所を始めると、夏休みは昼間そこで働いた。一方、中学時代にラジオで落語を聞き覚えるようになり、学校のホームルームなどで演じた。学業成績はよかったため高校進学を勧められたが、父の連れ子である3人の兄が高校(に当たる上級学校)を出ていないという事情から、1963年に定時制である大阪市立天王寺第二商業高等学校に進学する。

昼間はいくつかの職を変えながら働き、学校では演劇部に入る。演劇部の同級生に4代目林家小染がいた。小染とは2人だけで落語研究会も立ち上げたが、1年生の冬に小染は高校を中退して3代目林家染丸に弟子入りする。小染から染丸門下への誘いがあったものの、弟弟子になるのがいやで断念する。また、落語家に必要な教養を身につけるべきで学業での3年程度の「まわり道」は「どうということはない」と考えており、中退はしなかった。

在学中に毎日放送の『素人名人会』で「寄合酒」を演じて「名人賞」を獲得、さらに複数の素人参加番組で「常連」となる。卒業間際に再度『素人名人会』の「名人賞」を獲得したことで、本格的に落語家になることを決意する。

落語家として

高校卒業後、6代目笑福亭松鶴に入門。松鶴を選んだ理由は、(染丸以外の)松鶴・3代目桂米朝・3代目桂春団治・3代目桂小文枝の中で「名前の字数が一番多い」ことに加え、母から「顔の怖い人ほど心根は優しい」と言われたことにあった。2013年現在では3代目笑福亭仁鶴に次ぐ2番弟子である。

入門の際、松鶴の許を直接訪問せずに、「弟子にするなら○、弟子にしないなら×で返事をください」との内容を記した往復はがきを郵送したエピソードが知られる。結局返信されなかったため、直接道頓堀角座に出ていた松鶴の元に訪れ弟子入りを直訴した。松鶴からははがきを送ったことに加えて宛名を「福亭松鶴」と誤記した点を「なんちゅう失礼なやつ」「ナショナルの会社へ行って、東芝と言うてるようなもんや」と激怒される。偶然そのとき持ち込まれた独演会のチラシに同じ誤記があったことで松鶴は「プロが間違うなら、素人が間違っても仕方がない」と大声を出すよう命じて鶴光が叫ぶと、近くでそれを聞いた砂川捨丸が「大きな声を出せるということは芸人に向いてる」と弟子に取ることを勧め、松鶴は誤字の件を「水に流そう」と入門を認めた。

正式な入門は1967年4月、入門当日からいきなり稽古が始まった。高座名は松鶴から「鶴之(つるゆき)」と「鶴光」のどちらかを選ぶように指示され、「鶴光」を選んだという。

初舞台は1968年2月の新花月。入門時点で自動車運転免許を持っていたため、やはり免許を持っていた6代目笑福亭松喬が入門するまで松鶴の運転手をする。松鶴からはしばしば無茶な運転を強要され、急停止などで「意趣返し」をしていたという。また、松鶴からは7回破門されたと著書に記している。

1970年代前半、ラジオのパーソナリティとして人気を集め、1974年にニッポン放送の『オールナイトニッポン』に起用されて(笑福亭鶴光のオールナイトニッポン)、その知名度を高める(詳細後述)。『オールナイトニッポン』からは書籍(『かやくごはん』)やレコード(うぐいすだにミュージックホール)も出し、いずれもヒットした。だが、松鶴からタレント活動に苦言を呈されたこともあり、落語にも本腰を入れて取り組むようになる。

上方落語協会、関西演芸協会のほか、5代目春風亭柳昇の口添えで1990年より落語芸術協会(芸協)にも上方真打として参加、通常は東京の寄席に出演している。これは鶴光が1987年から2003年の間、東京のニッポン放送で平日帯のレギュラー番組(後述)を持っていたというスケジュール上の事情が背景にある。最初に東京の寄席(新宿末廣亭)に出たのは1989年9月で、当初より定席に組まれたがそれに対する風当たりを感じて代演という体裁に変えてもらい、約半年後に芸協側から「準会員としてちゃんと出てもらおう」という形になった。また、江戸落語では三味線・長唄・笛・日本舞踊の素養が必須と聞いてすべて習得している(上方落語では三味線の囃子方は職分として落語家とは別にいる)。

「6代目の(松鶴)師匠にはお世話になったから」(東京の落語家の来阪時にもてなした)と、東京の落語家に便宜を図ってもらう機会が何度もあり、鶴光は師匠への感謝の念を著書に記している。


 

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