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森田愛子



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Wikipedia

森田 愛子(もりた あいこ、1917年11月18日 - 1947年4月1日)は、福井県坂井市三国町出身の俳人。高浜虚子の写生文「虹」のヒロインとしても知られる。

生涯

幼少 - 青年時代

1917年(大正6年)、 三国港で回船問屋を営む豪商・森田三郎右衛門と田中よしの娘として生まれる。三国の芸者置屋の娘である田中よしは名妓といわれ、18歳で森田三郎右衛門の側室となった。2人の間には長男武雄、長女敏子がいたがふたりとも夭折している。森田愛子の父・森田三郎右衛門は、銀行業(森田銀行)や森田農園を営み、運送会社、みそ、醤油醸造も手がけていた。父も俳句に親しんでおり、句が残っている。愛子は、森田本家の父母や兄弟にもかわいがられ、裕福で何不自由ない少女時代を送る。1924年(大正13年)、三国北尋常小学校へ入学する。才色兼備で、尋常小学校を優秀な成績で卒業した。尋常小学校6年の時には学業優秀等の賞状を受けている。1930年(昭和5年)、福井県立三国高等女学校(現・福井県立三国高等学校)に入学。1933年(昭和8年)、16歳の時、陸軍特別大演習の際の天皇陛下奉迎歌に応募し二等入選する。女学校時代の友人によれば、愛子の性格は、温厚で人当たりもよく誰からも慕われており、勝気であったという。

学芸会では、劇「女学生生活」において、トロイメライを踊る。愛子は音楽や踊りが得意であった。愛子は、だるまや少女歌劇の衣裳部より借りたドレスを模して作った白羽二重のドレスを着て踊った。聴衆からは好評で感嘆のため息がもれたという。また劇中のダンスではノースリーブで肌が露出するため校長先生のお達しで長袖シャツを着たというエピソードも残る。1934年(昭和9年)、三国高等女学校を卒業し、東京の実践女子専門学校(現・実践女子大学)国文科に入学するが、10月、実践女子専門学校を中退し、三国高等女学校研究科に編入する。女学校での学籍簿の備考欄には、「品行方正・志操堅固・容儀端正・身孝上品・言語明瞭・言動活発・優美・沈着・勤勉・温順・誠実・責任感が強く奉仕心に富む」とかかれた。女学校の同級生の回想にも「愛子さんを訪ね一緒に銀座を歩いたとき、道行く人々が振り返ってながめたそうです。繊細優雅で愛くるしい容貌が人目を魅きつけたのでしょう」というものがある。1936年(昭和11年)、三国高等女学校研究科を優秀な成績で修了する。1938年(昭和13年)、20歳の春に、三国町立三国病院で肺結核と診断される。

鎌倉での療養時代〜俳句との出会い〜

1938年(昭和13年)神奈川県藤沢町(現・藤沢市)鵠沼に療養のため母とともに転居し、1939年(昭和14年)、神奈川県鎌倉市七里ケ浜の鈴木療養所に入所し、気胸療法を受ける。1940年(昭和15年) 1月、鈴木療養所にて高浜虚子門下の伊藤柏翠と出会う。レントゲン室前でシャツを脱ぐにの難渋していた柏翠を横から手伝ったのが愛子であった。柏翠は、森田愛子母娘を見たとき、ふと哀れを覚え、何か生きがいを与えられぬものかと考え、自分に生きがいを覚えさせた俳句を愛子にもすすめた。愛子は柏翠に弟子入りし、俳句を始める。愛子は、1940年(昭和15年)5月、「ホトトギス」5月号に初入選。8月、「玉藻」8月号に初入選する。1941年(昭和16年) 1月1日、柏翠とともに高浜虚子宅を訪問。同年2月、実朝忌句会に出席し、鎌倉俳句会の松本たかし、星野立子らと交流し次第に才能を発揮していった。俳句は次第に生きがいとなり、友人宛ての手紙でも俳句をすすめている。1941年(昭和16年)9月、戦時中の物資不足などの影響もあって、父森田三郎右衛門のすすめで三国町下真砂の家に帰る。

三国時代

句作に励む

1941年(昭和16年)に三国町に転居した後も、同町内の坪内美佐尾や吉川芳子(後の中村芳子)らと句作に励む。武生市の嵯峨柚子主宰のホトトギス系俳誌「櫨子」に参加。1942年(昭和17年)、鎌倉に住む柏翠がたびたび三国を訪問し、愛子たちを指導する。1945年(昭和20年)2月に、柏翠は鎌倉の鈴木療養所を退所し、三国へ疎開する。はじめは永正寺に下宿していたが、しばらくして愛子の家に移る。

愛子は、三国帰郷後も、句仲間と句会や吟行を重ねていた。1942年(昭和17年)には、皆吉爽雨、坪内美佐尾と東尋坊、雄島へ吟行する。愛子は、柏翠とともに、三好達治、多田裕計、畠中哲夫ら、当時三国にいた文人たちとも交流する。1945年(昭和20年)、高浜虚子が立子、年尾とともに三国を訪れ、伊藤柏翠、森田愛子、三好達治と愛子宅で句会、そのあと滝谷寺へ吟行する。このとき、高浜虚子は愛子宅の2階の座敷を「愛居」と命名する。愛子は虚子について「私の阿弥陀様は先生」とかいている。尊敬する存在であり、俳句だけでなく人生の師であった。三好達治は、「愛居」での句会の思い出を「自慢」と題して書き、愛子の「わが家の對岸に来て春惜しむ」の句を「何とゆかしく瀟洒でユーモラスな句ではないか。」と書いている。多田裕計も、三国へ疎開中の多田裕計を主人公として三国の文人たちとの交流を描いた小説「三国抄」を書き、愛子や柏翠も登場する。


 

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