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榎木 孝明(えのき たかあき、1956年1月5日 - )は、日本の俳優・水彩画家。鹿児島県伊佐郡菱刈町(現:伊佐市)出身。
幼少の頃は、独りで絵を描くのが好きな目立たない大人しい子どもだったという。しかし、そんな息子の軟弱さを許せない父親から厳しく鍛えられたという。その一環として薩摩藩を中心に伝わった古流剣術・示現流の指南を受け、腕を磨いた。流派の教えは芸能界に入ってからも生きており、「どんな仕事でも決して手抜きはしない。言い訳はしない。たとえ自分が悪くなくても全て自分が引き受けよう。たとえ損をしても後からくる得が大きい」という心構えで仕事に臨むという。
鹿児島県立大口高等学校を卒業後、絵が好きだったことから武蔵野美術大学に進学。在学中、アルバイトで芝居を経験し、没頭した。20歳の時に父が肺癌で急死。1978年劇団四季の研究生になり大学を3年次で中退。四季の同期には声優の速水奨がいた。1984年、連続テレビ小説『ロマンス』でテレビデビューを果たして以来、舞台やテレビ、映画、ラジオ等様々な分野で活躍している。
水彩画家としての一面もあり、北海道美瑛町、大分県九重町、鹿児島市にアートギャラリーを設けている。特に風景画を得意としており画集を出版するほか、切手や絵葉書の図案に採用されたこともある。日本国内はもとより、インドやネパール等の国を旅をして風景を描き止めている。描いた水彩画は2020年までに8000点近い。
特技は上述のとおり古武術。現場では共演者・スタッフを気功にて一瞬のうちにひっくり返してみせるというお茶目な一面もあり、絵画個展のファンクラブ会員限定の茶話会でも、実技を行ったことがある。テレビ番組で介護に古武術の体術を応用した「古武術介護」を実演したこともある(インターネットでも画像による解説がある)。
2019年の映画『みとりし』公開後、看取り士の資格を取得した。
実家は米と野菜、茶、味噌をつくっており食に困ったことはなく、父親がお茶も自分で入れない人だったことを反面教師として料理は得意であった。上京後の浪人・在学中はアパートで学生仲間3-4人から食費を集めて料理を作っていた。出されたものは何でも残さず食べる信条で、ヒマラヤ行きでは現地住民と同じバター茶やヤギ乳を、中央アジア行では遠来の客へのもてなしとして出された羊の頭部の丸煮きをいただいた。
後述するように、断食(不食)に挑戦したことがある。きっかけは映画『アダン』出演時、五十嵐匠監督より「こんな感じで」と、モデルとなった画家田中一村のあばら骨や眼球が浮き出た写真を見せられたこと。固形物を2週間食べず15キログラム痩せたが、感覚は却って研ぎ澄まされる経験をした。
2015年6月18日、フジテレビの情報番組『とくダネ!』の中で、30日間の不食を公表した。体重を80Kgから71Kgに落とした様子を、自身のフェイスブックで「不食ノート」として公表した。完全な不食でなく、医師に血液検査を受けながら飴や砂糖入りコーヒーを摂った。夜は記録カメラ付きの病院の一室で寝たものの、昼は普段通り仕事をした。体重は9キログラム減り、腰痛と膝痛は改善。集中力が増して目覚めがすっきりして、古武術の稽古では身体が軽くなったという。終えた後は妻がつくったけんちん汁を食した。
榎木本家は寛政の頃には大地主であり、小触(こぶれ:藩からの命令を村落に伝える役目)をしていた。しかし、孝明の祖父の代に山師からの金鉱山開発の儲け話に乗ってしまい、金を得る事が無いまま全財産を失い菱刈を出る。ちなみに、菱刈鉱山は祖父が掘った坑道の100m下にある。孝明の父、孝志は吉松に住んでいた兄を頼り、師範学校に通うも、榎木家の稼ぎ頭同腹の長男が結核で死亡した為、卒業を待たずに代用教員になる。更に徴兵されて台湾に渡るが、そこで結核に倒れ、回復するも兵器の修理要員となり前線に出ることなく第二次世界大戦終戦を迎えた。ちなみに、孝志が最初に配属された部隊はフィリピンで大勢の犠牲者を出しており、台湾に居る間に榎木家の男子は結核や戦場で孝志の父の前妻の次男を除いて死亡した。戦後は吉松で教員になり、赴任先の学校で台湾で自分を看病していて恋仲になった女性の姉と出会い、彼女の方から好意を寄せられ、彼女の血判付きの恋文を、居候先であった先述の腹違いの兄の嫁が宛て先を確認せずに封を切ってしまった上に、それを孝志本人の手に渡す前に親戚近所に触れ回った事もあって、孝志は彼女と結婚することになった、という。孝明が生まれた後に孝志は菱刈に土地を買い、そこに移住した。