お得な公演チケットサイト Confetti(カンフェティ)

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ



※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube検索等を行い、
その結果を自動的に取得・表示しています。


 

Wikipedia

アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exup?ry、1900年6月29日 - 1944年7月31日)は、フランスの作家、操縦士。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれる。

略歴

リヨンの伯爵の子として生まれる。イエズス会のノートルダム・ド・サント・クロワ学院を経て、スイスのフリブールにある聖ヨハネ学院では文学にいそしむ。

兵役(志願)で陸軍飛行連隊に所属し、異例の経歴で軍用機操縦士(士官)となる。退役後(士官であったため、陸軍予備役少尉となる)は自動車販売員などに就業した後、民間航空界に入る。

1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。著作は世界中で読まれ、有名パイロットの仲間入りをしたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。

1939年9月4日、第二次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務めた。前線への転属を希望したサン=テグジュペリは、伝手を頼り、周囲の反対を押し切る形で転属を実現させる。戦闘隊や爆撃隊は希望せず、1939年11月9日、オルコントに駐屯する偵察隊(II/33 部隊)に配属された。部隊は多大の損害を受けアルジェリアへ後退したが、ヴィシー政権がドイツと講和。動員解除でフランス本土へ戻った後、アメリカへ亡命。1940年12月21日リスボン出航。12月31日ニューヨーク着。

大戦中、亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴き、1943年6月に原隊である II/33 部隊(偵察飛行隊)に着任する。新鋭機に対する訓練期間を経て実戦配置されたが、その直後に着陸失敗による機体破損事故を起こし、1943年8月に飛行禁止処分(事実上の除隊処分)を受けてしまう。必死の尽力により復帰を果たすと、爆撃機副操縦士としての着任命令(I/22部隊)を無視する形で、1944年5月、サルデーニャ島アルゲーロ基地に進出していたII/33部隊に戻った。部隊は後にコルシカ島に進出。1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブル、シャンベリー、アヌシーを写真偵察のため、ロッキード F-5B(P-38の偵察型)を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃後、地中海上空で行方不明となる。

乗機の引き揚げ

その行方は永らく不明とされていたが、1998年9月7日、地中海のマルセイユ沖にあるリュウ島近くの海域で、サン=テグジュペリの名と、妻コンスエロの名(括弧書き)、および連絡先(c/o)としてニューヨークの出版社レイナル&ヒッチコックの名と所在地(#作品にあるように、1943年に「星の王子さま」を初出版した版元)が刻まれた、ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって発見された。

同海域には沈船や墜落機の残骸が多数存在しているが、のちにサン=テグジュペリのものと確認されるF-5Bの残骸(車輪を含む左エンジンナセル)は、1950年代には地元のダイバーによりその存在を目視されていた。1982年、複数機種の残骸混在状態で写真撮影もされていたが、この海域は従前サン=テグジュペリの墜落現場候補とは思われておらず、詳しく調査されることはなかった。上記ブレスレットの発見を受けて、改めて広範囲な探索が行われた結果、2000年5月24日に上記残骸がサン=テグジュペリの搭乗機であることを確認。このことが2000年5月26日にマスメディアで報じられ、世界中に知られるところとなった。

遺産相続者の反対などで引き揚げはその後も行われていなかったが、2003年になって、仏米間の政治的な状況の変化も絡んで正式な回収許可が下り、前記の左エンジンナセルが引き揚げられ、さらに、広い海域に散乱していた多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められた。回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、左ターボチャージャーセット外板に刻まれたロッキード社の記帳番号により彼の乗機であることが確認された。

2008年3月15日付『ラ・プロヴァンス(電子版)』(プロヴァンスのローカル紙)に、当時Bf109のパイロットだったホルスト・リッパート(de:Horst Rippert)曹長がサン=テグジュペリの偵察機を撃墜したとする証言が公開された。彼自身もサン=テグジュペリ作品の愛読者だといい「長い間、あの操縦士が彼では無いことを願い続けた。彼だと知っていたら撃たなかった」と話していた。

家系・出自

サン=テグジュペリの出生届には「Antoine, Jean-Baptiste, Marie, Roger de Saint-Exup?ry」と記されていた。 サン=テグジュペリ家は「11世紀にまで遡る名門貴族の家系」と言われることが多いが、実際には確認できていない (個人が特定できるのは13世紀までであるが、文献に少々不明瞭な記載があり、これによれば11世紀にまで遡る)。

文献や資料によれば、サン=テグジュペリ家は複数の家系がある。アントワーヌの家が属するのはそのうちのひとつで、そのなかでも傍流に属する(長男でない当主が複数回)。嫡流のサン=テグジュペリ家が爵位を得たのは18世紀の終わり頃のComte de Saint Amans からで、それ以前は士族に過ぎない。明らかに爵位を得ていない時期から、サン=テグジュペリ姓を名乗っている。すなわち、「サン=テグジュペリ」は単なる固有の姓であって爵位の有無に関係がなく、「Seigneur」や「Comte」と「de Saint-Exup?ry」は分離して考えるべきであろう。そして、アントワーヌの祖父フェルナン(Fernand)の「サン=テグジュペリ伯爵(Comte de Saint-Exup?ry)」なる称号が本当に存在したか否かも怪しい。

彼の家系は地方士族(後に一時貴族)であって、「名門」とは呼べない(中央の宮廷貴族だけでも4000家以上ある)。アントワーヌ自身は爵位を持っていない。出自は「元(一時)」伯爵家で、彼の父も爵位は有しておらず、所領もない。すなわち没落貴族である。


 

取扱中の公演・チケット情報

現在取り扱い中の公演はありません。