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堀川りょう

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堀川 りょう(ほりかわ りょう、1958年2月1日 - )は、日本の声優、俳優、音響監督、YouTuber。アズリードカンパニー(代表取締役)および株式会社ジャグラーインターナショナル所属。大阪府枚方市出身。東京都昭島市育ち。青二プロダクションに所属していたころは堀川 亮(ほりかわ りょう)の芸名で活動していたが、2001年4月3日に現在の芸名に改名した。インターナショナル・メディア学院学院長。妻は同じく声優の及川ひとみ。

経歴

キャリア

子役・俳優として

小さい頃のことはあまり覚えていないが、母が芸能の世界が好きであり、色々な習い事をさせられていたという。その中で習い事の一つとしてオーディションを受けて大阪府の劇団のアカデミー児童劇団に入団したことで、小学校低学年から子役として活動。当時住んでいた大阪府枚方市から大阪市内まで、京阪電車で通っていたという。学校はあまり行っておらず、必要な出席日数を確保するのに苦労していたという。子役時代は「ろくでもないガキ」であったといい、仕事ではしょっちゅう叱られ、撮影所に行っていた時は小道具や衣裳係に怒られながらも遊び回り、竹光などもボロボロにし、セットの障子も穴あけまくっていたという。その分演じることに対してのガッツだけはあり、監督には気に入ってもらっていたといい、スタッフからは小道具の専用の刀なども作ってもらったりしていたという。1967年に国民的ヒーローとして人気を博した時代劇ドラマ『鞍馬天狗』(大瀬康一主演版)の主人公の相棒・杉作少年を演じて脚光を浴びる。実力派子役として京都・太秦などで活躍し、『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』『水戸黄門』などに出演した。『水戸黄門』の初代黄門役の東野英治郎とも共演しており、母によると「大きくなったら俳優座に来いよ」などと、声をかけてくれたという。

松竹新喜劇を率いていた藤山寛美にも、舞台に呼んでもらっていた。当時の藤山の舞台は、セリフも立ち位置も間も一分の隙もなく調整され、緻密な計算に基づいて上演され演ていたため、演じる側は完璧に再現させなくてはならず、稽古場ではクスリとも笑いが起きなかったという。舞台では割れんばかりの爆笑の渦であり、緊張と高揚を同時に体験できる舞台は、エキサイティングな場だったという。

芝居の楽しさを知り始めた一方で、芝居以外の普通の子供としての生活では、失ったものも多くあったという。同じ団地で一番仲良くしていた人物が、ある時からなぜかよそよそしい態度をとるようになり、 気になって問いただしたところ「うちのお母ちゃんがな、お前としゃべったらいかんって言うねん」と言われ、子供時代で一番傷ついた経験かもしれないという。芝居の世界で無邪気に楽しんでいたが、「普通の世界」から思いもかけない敵意のまなざしを向けられたが、その経験もまた演技の奥行きにつながったと思い、「あの時から、「芝居」と意識的に繋がり出したのかもしれない」「普通の世界」が思わぬ形で傷つけたことをきっかけに拓かれた、新しい道だったのかもしれない」という。

周囲のスタッフの言う通りに演技し、褒められれば嬉しく、子供なりに「もっと認められたい」という気持ちを強く持つようになったという。真冬の川へ飛び込むというきついシーンも子供だてらにしており、唇をガタガタ震わせながらも、周囲のキャストやスタッフが「こいつ、根性あるなぁ!」と口々に言ってくれるのを誇らしく感じていたという。そういう現場が好きであり、「撮影所をテーマパークか遊園地のように感じていたのかもしれない」と語る。江戸の町並みの家屋のセットに入ると、その時代に迷い込んだような感覚を覚え、非日常空間で味わった高揚感や幸福感は、演じるときのベースになっている気がするという。1969年のドラマ『なんでも引き受け候』で4代目三遊亭小圓遊や中村玉緒とレギュラー出演したことがあった。当時、偶に京都に呼んでもらい、途中から「ちょっと待てよ」というシチュエーションになったため、現場から少し離れたという。小学6年生の12歳くらいの時にTBSで放送されていた時代劇『彦左と一心太助』に出演していた時、 一心太助役の山田太郎に「お前ちょっとうちに来い」、「東京来たらうちにおいで」と言われて新栄プロダクションに所属していた。しかし中学時代、その人物が事務所を退所して、「無責任やな」と思い、何となく宙ぶらりんになった状態だったという。中学時代に、父の仕事の都合で東京都昭島市に転居し、その後も東京の撮影所に通って、テレビドラマ、芝居に出演していた。将来を意識するようになったのはこの頃からであり、「芝居の世界で食べていけるようになりたい」という思いが徐々に芽生え始めたという。「このジャンルをやりたい」という明確なイメージはなく、主に出演していたのは時代劇だったが、現代劇にも興味があり、舞台も好きで、ドラマも好きであり、演じることであれば何でも関心があったという。ただし、それぞれの「違い」を味わうようになったのは大きな変化だったと語る。

中学2年生になるまでは子役の活動をしていたが、それ以後は「少し学業に専念しよう」と思った。それについては「学校生活をしてこなかったため、コンプレックスもあった」と感じているという。1番中途半端な時期であり、スタッフにも「君こんな所来ている場合じゃないよ、勉強しなさい」と言われ、高校卒業まで一旦芸能活動を休止して、学校生活をしていた。中学時代は写真部に所属していた。

演じることに対する気持ちが揺らぐことはあり、中学の頃といった思春期だった頃、「本当に自分はこの道でやっていけるのだろうか?果たしてできるのかな?」と思ったことはあったという。子供で幼かった頃は何も考えずに遊ぶのと同じ感覚で活動していたが、少し成長して考えられるようになると迷いが出てきたが、16歳の時には「自分が役者で生きる」と決断して以降は迷わずに済んだという。もう決意してしまったことから迷わず、それが原点だったという。「何が必要か?どうしなければならないのか?」ということで迷うことはあってもその原点は揺れ動くことがないため、原点のある土台そのものを取り替えるということは考えていなかったという。

12歳の1学期までは枚方市立第四中学校に通っていたが、中学1年の2学期で東京に来てから堀越中学校に通っていた。堀越高等学校卒業。高校卒業後の進路でCBS・ソニーから出ることを内定していたが、「ごめん大学行く」と言って断念したという。獨協大学経済学部に進学したが、中退している。劇団四季の研究所を経て、劇団四季にも所属していた時期がある。劇団四季退団後は小劇団のような所で芝居をしており、その間は役者では食べられないため、アルバイトもしていた。最初にしていたアルバイトはホテルオークラだった。

俳優としてはタカモトプロ所属となっている。2020年2月より株式会社ジャグラーインターナショナルに所属。

声優として

その後、当時所属していた事務所から「アニメ声優のオーディションを受けてみないか」と言われて、1984年にテレビアニメ『夢戦士ウイングマン』の主人公・広野健太役で声優デビュー。出演していたテレビ、映画の映像に対してのアテレコは経験がある。非常に嬉しいと思ったが、一方で慣れない仕事に対する悩みもあったという。実際に動画が完成した状態での収録だったが、台本を見ていると絵が動いて先へ行ってしまい、逆に絵を見ていると手元の台本が見られないことがあり、それによりジレンマに陥り、セリフをある程度丸暗記して(細かい「てにをは」は勘弁してもらい)画面のみを見て収録した。

同人舎プロダクションの研究所、同人舎プロダクション、青二プロダクションで活動後、アーク・ライツを経て、アズリードカンパニーに所属しその代表取締役となった。


 

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