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藤井康雄

藤井康雄



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藤井 康雄(ふじい やすお、1962年7月7日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、プロ野球コーチ、野球解説者。

オリックス・ブルーウェーブの現役選手時代には、「ミスター・ブルーウェーブ」、「ヤスオさん」の愛称で親しまれた。2002年限りで現役を引退してからは、オリックスや福岡ソフトバンクホークスの打撃コーチ、関西創価高等学校の硬式野球部コーチを経て、2021年のシーズン終了後から阪神タイガースで一・二軍の巡回打撃コーチを務めている。

経歴

アマチュア時代

福山市で生まれ育ち、『巨人の星』に惹かれて小学校2年生で野球を始め、当時は三塁手を務めていた。この頃から将来はプロ野球選手になることしか頭になく、同じ左打ちの王貞治に憧れていた。福山市立鷹取中学校では投手と外野手を兼任し、打球がライト側の校舎を越えるほどの長打力があったという。野球留学で進んだ泉州高等学校でもポジションは変わらず、長打力を評価されていた一方で変化球が苦手だった。

甲子園出場はならなかったが知人の勧めでプリンスホテルに入社し、プロ入りした石毛宏典の後任として遊撃手へのコンバートが検討されたものの、数日でこの案が却下されて一塁手となっている。社会人時代には全日本代表の4番を務めた事もある。また20代前半で肩を故障して半年ほど野球ができなくなり、歯がゆい思いをしたという。1983年から4年連続で都市対抗野球大会に出場、1985年からは四番打者として起用される。1986年の都市対抗では準々決勝に進むがNTT北陸に敗退。この大会の2回戦では熊谷組から1試合2本塁打を放つ。この時のチームメイトに小川博文、中島輝士らがいた。

社会人野球No.1の強肩とベース1周14秒5の俊足を評価され、1986年のドラフト会議で阪急ブレーブスから4位指名を受けた。東京に6年間いた事もあって在京球団を希望していたが、「与えられた環境で頑張ることが大事ではないか」という母の助言もあって入団を決めたという。担当スカウトは三輪田勝利で、契約金と年俸それぞれ4,300万円、450万円(いずれも推定)で契約を結んでいる。全日本代表のメンバーで同時入団した山越吉洋(86年2位)、本西厚博(85年4位、翌年入団)と共に「全日本トリオ」と呼ばれた。

プロ野球選手時代

プロ1年目の1987年のキャンプから打球の飛距離はレギュラー陣にも引けを取らず、監督の上田利治に積極的に起用されて同年は77試合に出場した。一方で、金属バットから木製バットに変わった事で、感触の違いや頻繁に折れる事に悩んだ。オフには結婚式を挙げ、上田から「細く長く、頑張れ」と言われて気持ちに余裕ができた事を後年までよく覚えていたという。1988年は5月下旬にブーマー・ウェルズが左ヒザ関節炎で帰国し、代わりに一塁手を任されると打撃面で好成績を残し、5月28日の対南海戦では初の四番を任されている。また、同年はジュニアオールスターゲームで決勝ホームランを放ち、MVPと賞金100万円を獲得した。ブーマーの復帰後は右翼手のレギュラーとなり、規定打席には達しなかったもののシーズンで20本塁打を記録した。

チーム名がオリックスになった1989年は開幕から前年の簑田浩二が移籍以来不在だった右翼手のレギュラーとなり、ブルーサンダー打線の一角を占めた。7月には自身初のオールスターゲームに出場し、斎藤雅樹から2点本塁打を放って優秀選手に選ばれている。シーズン通算では打率.292、30本塁打、90打点の成績で、初のベストナインに選出された。1990年は5月に打率.363、6本塁打、18打点の成績で初の月間MVPを受賞し、自己最多の37本塁打、96打点をマークしている。

1991年は5月3日の対日本ハム戦でサヨナラ2点本塁打を放ち、自身にとってプロでの本塁打の中で最も記憶に残っているという。しかし5月の守備練習中にフェンスに激突してむち打ち症となり、左腕が痺れて首が動かなくなった。身体のバランスが崩れたことで本来のバッティングフォームが損なわれ、同年は打率が.222に大きく低下した。さらにバランスを崩したまま練習したことで両膝を痛め、翌1992年は出場試合数が20試合に激減している。同年オフの契約更改では1,000万円減の年俸4,000万円(推定)となっている。

試合に出られない期間は辛抱強く治療とトレーニングに取り組み、また家族と接する機会が増えたため自分を見つめなおすことができたという。1993年は序盤の打率が1割台から2割台の間で低迷していたが、5月18日の対ロッテ戦で3本塁打7打点を挙げ、7月には打率.324、4本塁打、12打点で2度目の月間MVPを受賞している。同年はチームトップの28本塁打、86打点の成績で2度目のベストナインに選出され、パ・リーグ特別表彰で努力賞を受賞している。また、11月のパ・リーグ東西対抗では決勝3ランホームランを放ってMVPを獲得している。オフの契約更改では4,000万円増の年俸8,000万円(推定)となっている。

仰木彬が監督に就任した1994年はブレイクしたイチローが右翼手を務めることも多く、柴原実やキャブレラとともに右翼手や一塁手として起用された。1995年は阪神大震災の影響が強く残る中でリーグ優勝を果たし、優勝の決まった試合でウィニングボールを捕球した事とともに非常に印象に残っているという。同年の日本シリーズでは第3戦から第5戦まで5番・右翼手としてスタメンで出場している。1996年も規定打席には達しなかったが3年ぶりの20本塁打を記録し、日本シリーズでは第4戦以外は先発出場してチームも日本一になっている。

1997年は打率、本塁打、打点ともに前年を下回り、取得したFA権の行使についても球団からドライな態度を示され、野球協約の限度を超える40%(3,000万円)減の年俸4,800万円で契約を更改している。1998年は打撃コーチの新井宏昌の助言でバットを950グラムから約920グラムに軽量化して重心も先よりにしたところ、ヘッドスピードが速くなったという。飛距離が伸びた事でシーズン終盤まで本塁打王を激しく争い、最終的にはトップのナイジェル・ウィルソンと3本差の30本塁打を記録している。当時は仰木マジックと呼ばれる采配で起用方法が毎日のように替わっていたが、打順などが固定された方がやりやすいと感じていたという。

2001年は9月30日の対ロッテ戦で、小林雅英からパ・リーグ新記録となる通算14本目の満塁本塁打、且つ日本プロ野球史上唯一の二死・3点差からの代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど、出場は88試合ながらチームの日本人トップとなる15本塁打を放っている。しかし打率は初めて1割台となり、契約更改では2,000万円減の年俸3,000万円(推定)となった。

2002年はNPBの現役最年長野手の一人となった。その数年前から「40歳を過ぎても現役続行」を意識しており、7月7日に目標は達成された。新監督の石毛宏典からは確実性を上げることを目標にキャンプで打撃を大きく矯正されたが、かえって打撃を崩す一因となった。同年で現役を引退を決め、「まだまだやれる気はするが以前よりもファンの期待に応えられなくなった自分が許せなくなった」とその折に語った。10月13日の対近鉄戦(神戸)で引退試合が行われた。始球式では14歳だった長男と対戦し、試合後には引退セレモニーが行われた。これにより、阪急時代からオリックスに在籍していた選手はいなくなった。


 

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