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劇団民藝(げきだんみんげい)は、神奈川県川崎市麻生区に本拠を置く新劇団のひとつ。「株式会社劇団民藝」が運営している。
東京芸術劇場(1945年12月14日結成、1947年3月に分裂)にいた滝沢修が中心となって1947年、東京芸術劇場の脱退メンバーの森雅之らと新協劇団にいた宇野重吉が参加して結成された民衆芸術劇場(第一次民藝ともいう)を前身とし、1950年、宇野重吉、滝沢修、北林谷栄らによって創立された劇団。特に宇野は終世劇団の顔として牽引役を果たした。1951年の「炎の人ヴァン・ゴッホの生涯」では、女優が背中を見せるなどの熱演を演じた。
1959年に法人化し、株式会社劇団民藝による運営形態となった。現在の劇団代表は奈良岡朋子。法人役員は、奈良岡が代表取締役、常勤・非常勤の監査役が1名ずつ(2013年12月時点)で構成されている。
1950年12月22日、劇団民藝として、創立された。第1回公演はチェーホフの『かもめ(岡倉士朗演出)』。翌1951年には『炎の人-ゴッホ小伝(三好十郎作)』が上演された。
その後、久保栄、木下順二らの創作劇からアーサー・ミラーの『セールスマンの死』、F&Aハケット『アンネの日記』、サルトルの『汚れた手』などの翻訳劇まで数多くの作品を上演し、新劇界の中心的役割を果たす劇団として多くの人々に親しまれている。日活が1954年に映画製作を再開した際、五社協定により他社の映画俳優を一切使えなかったため民藝と提携。一般作品の制作を断念する1971年にかけて多くの俳優が日活映画に出演している。1960年代には樫山文枝、日色ともゑらがNHK朝の連続テレビ小説で人気となった。米倉斉加年、高田敏江、吉行和子らも過去に所属していたことがある。
1971年には内部で対立が起こり、佐野浅夫・佐々木すみ江・下條正巳・鈴木瑞穂らが退団。
2005年から2006年には、奈良岡朋子が無名塾の仲代達矢との共演で、『ドライビング・ミス・デイジー』を上演している。
2020年1月に篠田三郎が青山事務所所属となった。