お得な公演チケットサイト Confetti(カンフェティ)

カンフェティ創刊14周年

水木しげる



※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube検索等を行い、
その結果を自動的に取得・表示しています。


 

Wikipedia

水木 しげる(みずき しげる、男性、1922年3月8日 - 2015年11月30日)は、日本の漫画家。文化功労者、傷痍軍人。本名は武良 茂(むら しげる)。

大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市で経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家としてデビュー。代表作の『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。

概要

1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、まかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。

高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し、体躯壮健ながら近眼であった事から乙種合格となり補充兵役編入。1943年に召集され、帝国陸軍の軍人(兵)として太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、米軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。

復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。

1961年、飯塚布枝と見合い結婚。1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。1965年に『テレビくん』が講談社児童まんが賞を受賞したほか、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、以降、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。

長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。調布市名誉市民、東京都名誉都民。2010年に文化功労者にも選ばれた。2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。

2015年11月30日、多臓器不全により死去。93歳没。

生涯

生い立ち

1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜)に生まれた。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木によれば、当時父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていたという。身重の母親・琴江は夫に会うために境港からやってきて、大阪で水木を産んだ。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという。水木が境港に戻った年齢についてははっきりとわかっていないが、生後まもなくから2歳ぐらいのときとされている。

その後間もなく父は事業に失敗して帰郷、結局は一家全員が境港に落ち着くことになった。

5歳の頃のある日、「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。


 

取扱中の公演・チケット情報

現在取り扱い中の公演はありません。