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アントニン・ドヴォルザーク

アントニン・ドヴォルザーク



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Wikipedia

アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(チェコ語: Anton?n Leopold Dvo??k [?ant??i?n ?l??p?lt ?dv?r?a?k] ?発音、1841年9月8日 - 1904年5月1日)は後期ロマン派に位置するチェコの作曲家。チェコ国民楽派を代表する作曲家である。チェコ語の発音により近い「ドヴォルジャーク」「ドヴォジャーク」という表記も用いられている(表記についてはドヴォジャークを参照)。

ブラームスに才能を見いだされ、『スラヴ舞曲集』で一躍人気作曲家となった。スメタナとともにボヘミア楽派と呼ばれる。その後、アメリカに渡って音楽院院長として音楽教育に貢献する傍ら、ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を吸収し、自身の作品に反映させている。

代表作に、弦楽セレナード、管楽セレナード、ピアノ五重奏曲第2番、交響曲第7番、交響曲第8番、交響曲第9番『新世界より』、スラヴ舞曲集、この分野の代表作でもあるチェロ協奏曲、『アメリカ』の愛称で知られる弦楽四重奏曲第12番などがある。

生涯

幼少期

ドヴォルザークは、プラハの北約30kmほど、北ボヘミア、ロプコヴィッツ家の本拠地のひとつであるネラホゼヴェスに生まれた。生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父親はツィターの名手として村では評判で、簡単な舞曲を作曲して演奏することもあった。また、近所の町でやはり肉屋を経営していた伯父もトランペットの名手として知られていた。6歳で小学校に通い始めるが校長のヨゼフ・シュピッツにヴァイオリンの手ほどきを受けると見る間に上達し、父の宿屋や教会で演奏するようになった。8歳で村の教会の聖歌隊員、9歳でアマチュア楽団のヴァイオリン奏者となり、音楽的才能を見せ始める。父親は長男であったアントニンには肉屋を継がせるつもりであったため、小学校を中退させ、故郷から30kmほど離れた母方の伯父が住むズロニツェという町へ肉屋の修業に行かせた。ところが、この町の職業専門学校の校長で、ドイツ語を教えていた(当時、肉屋の技術修得書を得るためにはドイツ語が必修であった)アントニン・リーマンは、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の作曲も行った、典型的なカントルというべき人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。

学習期

1855年、ドヴォルザークの両親はネラホゼヴェスを引き払い、ズロニツェに移って飲食店を始めた。翌年になるとドヴォルザークはチェスカー・カメニツェという町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学ぶことになった。ところが、実家の経済状況が悪化して音楽の勉強を続けさせることが困難となったため、両親は帰郷させて肉屋を手伝わせようとした。これにリーマンと伯父が反対し、両親を強く説得、さらには伯父が経済的負担を負う約束で1857年にドヴォルザークはプラハのオルガン学校へ入学した。経済的には苦しい学生生活であったが、3歳年上の裕福な家庭の友人カレル・ベンドルと知り合い、楽譜を貸してもらうなどして苦学を重ね、2年後の1859年に12人中2位の成績で卒業した。この時の評価は、「おおむね実践的な才能に長けている(中略)ただし理論に弱い」というものであった。ベンドルとの友情は卒業後も変わらず篤いものであり、彼は後にドヴォルザーク作品を初演するなど援助を惜しまなかった。

青年期

卒業後は、カレル・コムザーク1世の楽団にヴィオラ奏者として入団、ホテルやレストランで演奏を行っていたが、1862年チェコ人による国民劇場建設が具体的に決まり、完成までの間、仮劇場を設けることになっていた。ドヴォルザークは、その仮劇場のオーケストラのヴィオラ奏者となった。1866年、このオーケストラの指揮者としてベドルジハ・スメタナが迎えられ、その教えを直接受ける機会を得た。

一方、1865年からは仕事の合間に金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となった。女優でもあった姉ヨゼフィーナに恋心を抱くも失恋し、この時の想いが歌曲集『糸杉』をはじめ、様々な作品に昇華されることとなる。

創作活動では、オルガン学校在学中から習作は行っていたようであるが、多くは破棄されてしまった。コンクールの応募作品として最初の交響曲が書かれたのは1865年のことである。しかし、この交響曲は生前演奏されることはなかった(ドヴォルザーク自身その存在を忘れていたと言われる)。1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げるが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れている。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえる。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』(第1作)が作曲されている。スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評したが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言した。その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなった。

ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』であった。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演された。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得た。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚した。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任した。この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができた。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラ(各曲が独立して番号が振られたオペラで、ワーグナーの手法とは完全に逆行する)として完成させた。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊った。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていった。

ブラームスとの出会い


 

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