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柳田国男

柳田国男



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Wikipedia

柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。大日本帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は正三位・勲一等。出版物等においては、常用漢字体による「柳田 国男」という表記も使用される。

「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続けている。

生涯

生い立ち

1875年(明治8年)7月31日、飾磨県(兵庫県)神東郡辻川村(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの8人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、越知川があり古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さく、親夫婦と長男夫婦が同居できる大きさではないのに、無理に同居させたことから嫁と姑との対立が生じ、長男夫婦の離婚を招いたことが、幼き日の國男に強い影響を与え、民俗への関心[家(および家屋)の構造への関心=民俗学への志向]はそこから芽生えた。

父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂といった私塾で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として1863年(文久3年)に赴任した。明治初年まで相応な暮らしをしたが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという。

幼少期より非凡な記憶力を持ち、11歳のときに地元辻川の旧家三木家に預けられ、その膨大な蔵書を読破し、12歳の時、医者を開業していた長男の鼎に引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に住んだ。生地とは異なった利根川の風物や貧困にあえぐ人たちに強い印象を受ける。徳満寺という寺では、間引き絵馬(母親が、生んだばかりの我が子の命を奪っている姿を描いている)を見て、終生忘れることの出来ない衝撃を受ける。また、隣家の小川家の蔵書を乱読した。16歳のときに東京に住んでいた三兄井上通泰(帝国大学医科大学に在学中)と同居、図書館に通い読書を続ける。三兄の紹介で森?外の門をたたく。17歳の時、尋常中学共立学校(のちの開成高等学校)に編入学する。この年、田山花袋を知る。翌年、郁文館中学校に転校し進級する。19歳にして第一高等中学校に進学、青年期を迎える。東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。

詩人・松岡國男

井上通泰の紹介により森?外と親交を持ち、『しがらみ草紙』に作品を投稿、また通泰の世話で桂園派の歌人・松浦辰男に入門する。第一高等中学校在学中には『文學界』『國民之友』『帝國文学』などに投稿する。1897年(明治30年)には田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版する。ロマン的で純情な作風であった。しかしこの当時、悲恋に悩んでおり、花袋にだけこれを打ち明け、花袋はそれを小説にしていた。飯田藩出身の柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ後も、田山花袋・国木田独歩・島崎藤村・蒲原有明など文学者との交流は続いたが、大正時代に入ったあたりから当時の文学(特に自然主義や私小説)のありようを次第に嫌悪し決別していった。

民俗学の夜明け

東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、明治41年5月下旬から約3ヶ月かけて九州と四国を旅している。7月宮崎県椎葉村を訪問、大河内の椎葉徳蔵宅で文書『狩之巻』を目にした。帰京後椎葉村長の中瀬淳(なかせすなお)に文書を分かりやすく書き直してもらい、また、他の狩に関する口伝えを文章にしてもらい書簡で送らせた。それらをまとめ、明治42年3月15日に刊行したものが『後狩詞記(のちのかりことばのき』である。この本について柳田は、「今日ではこれが日本の民俗学の出発点のようにいわれている」と述べている。

その後、講演旅行などで地方の実情に触れるうちに次第に民俗的なものへの関心を深めてゆく。また、当時欧米で流行していたスピリチュアリズムの影響を受け、日本でも起こっていた「怪談ブーム」のさなかで当時新進作家だった佐々木喜善と知り合い、岩手県遠野の佐々木を訪問して『遠野物語』を執筆する。他に宮崎県椎葉などへの旅の後、郷土会をはじめ、雑誌『郷土研究』を創刊する。民俗学が独自の領域と主張を持つための下準備を着々と進めていった。

日本民俗学の確立

『郷土生活研究法』における「重出立証法」などで日本民俗学の理論や方法論が提示されるなど、昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。一方で山村調査、海村調査をはじめとする全国各地の調査が進み、民俗採集の重要性と方法が示された。以降、日本人は何であるかを見極め将来へ伝えるという大きな問題意識を根底に「内省の学」として位置づけられてきた。


 

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