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マリウス・プティパ

マリウス・プティパ



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Wikipedia

マリウス・プティパ(仏: Marius Petipa、1818年3月11日 - 1910年7月14日)は、フランス出身のバレエダンサー・振付家である。1847年にロシアに渡り、1869年から1903年にかけて帝室劇場(現在のマリインスキー・バレエ)の首席バレエマスター(振付指導兼責任者)を務めた



19世紀後半のロシアで『眠れる森の美女』をはじめとする多数のバレエを創作し、クラシック・バレエ(古典バレエ)の形式を確立させたほか、『ジゼル』『海賊』など既存のバレエの改訂も手がけた。今日上演されるクラシック・バレエ作品でプティパ以前からあったものは、そのほとんどがプティパによる改訂を経ている。後世の振付家にも多大な影響を与えており、「クラシック・バレエの父」とも称される。

生涯

西ヨーロッパでの活動

1818年3月11日、フランスのマルセイユに生まれる。両親は共に舞台人で、父ジャン=アントワーヌはダンサー兼振付家、母ヴィクトリーヌは俳優だった。

マリウスは、3歳年上の兄リュシアン・プティパと共に父からバレエを教わり、兄弟は共にダンサーになった。ダンサーとしての評価は兄の方が高く、リュシアンは後にパリ・オペラ座に入団して高い名声を得た。一方、弟マリウスは希望していたオペラ座に入団することは叶わず、ヨーロッパ各地の劇場を転々とした後にロシアへ渡ることになる。

プティパは1831年、13歳のときに、ブリュッセルで行われた父親の一座の公演で初舞台を踏んだ。以降、父親の一座の団員としてヨーロッパ各地を巡業する。1838年からはナントの劇場でダンサー兼バレエマスターとして契約し、この劇場で初めてバレエの振付を手掛けた。その後、パリでオーギュスト・ヴェストリスに師事して技術を磨いてから、ボルドーの劇場でダンサーとして活動するが、この劇場は短期間で財政破綻してしまう。そこで、1843年(1844年とも)にスペインに渡り、1846年まで同地に滞在した。

プティパはマドリードのシルコ劇場で仕事を得るが、やがて自身の恋愛沙汰がきっかけでフランスの外交官と決闘事件を起こし、指名手配を受けて、フランス、イングランド、スコットランドまで逃亡した。

ロシアへ

指名手配犯となったプティパは、1847年5月、父ジャン=アントワーヌと共にロシアのサンクトペテルブルクへ渡る。当時のロシア宮廷は、ヨーロッパ各地から優れた芸術家を招いており、マリウスはダンサー兼バレエマスター、ジャン=アントワーヌは舞踊学校の教師の職を得ることになった。なお、ジャン=アントワーヌが1855年に没した後、教師の仕事は息子のマリウスが引き継いだ。

1847年9月、プティパのサンクトペテルブルクでの初仕事にあたる『パキータ』ロシア初演が行われた。本作は前年にパリに初演された作品であり、プティパは主役のリュシアンと、ジプシーの群の長の二役を演じたほか、父と共に演出にも携わった。

翌1848年、プティパと同じくフランスから招かれたジュール・ペローが、帝室劇場の首席バレエマスターに就任した。ペローの下で、プティパは振付の機会をほとんど与えられなかったため、しばらくはダンサーとしての仕事に専念せざるをえなかった。しかし、振付への意欲を持ち続けていたプティパは、ペローの助手を務めながら、兄リュシアンを通じてパリの新作バレエの情報を収集するなど、研鑽を積んだ。1855年、プティパは最初の重要な作品である『グラナダの星』を発表した。

1859年、ペローに代わってフランスから招聘されたアルチュール・サン=レオンが首席バレエマスターに就任した。サン=レオンはヨーロッパ各地を回る多忙な生活を送っていたこともあり、前任のペローとは対照的に、助手のプティパが振付を行うことに寛容であった。プティパの出世作となったのは、1862年に初演された『ファラオの娘』である。本作は、ダンサーのカロリーナ・ロザーティの引退記念として、初演の2ヶ月前に急遽制作が決まったが、プティパはこれを引き受け、わずか6週間で3幕9場の大作バレエを完成させた。この作品の成功を機に、プティパは第二バレエマスターに任命された。本作でプティパは主役のタオールを演じたが、ダンサーとしての仕事はこれが最後であり、以後は振付に専念するようになった。

首席バレエマスターとしての活動

1869年、プティパは、フランスに帰ったサン=レオンの後任として首席バレエマスターに就任した。同年、プティパはモスクワの帝室劇場(現ボリショイ劇場)から依頼を受け、『ドン・キホーテ』を制作している。その後も精力的に作品を発表し、1877年には代表作の一つである『ラ・バヤデール』を成功させた。また、既存のバレエ作品の改訂も数多く手掛け、『ジゼル』や『コッペリア』などの改訂演出を発表した。


 

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