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斎藤友佳理

斎藤友佳理



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Wikipedia

斎藤 友佳理(さいとう ゆかり、1967年7月29日 - )は、日本のバレリーナ、バレエ指導者、振付家である。1987年に東京バレエ団に入団し、2015年に芸術監督に就任した。

母は、アトリエ・ドゥ・バレエを主宰する木村公香。叔母(母の妹)は女優の木村有里、夫は元ボリショイ・バレエ団のプリンシパルダンサー、ニコライ・フョードロフ。20代で出産後、バレリーナに復帰。愛称は『ユカリューシャ』(ユカリのロシア語での愛称に因む)。フョードロフとの間に1男あり。

経歴

幼年期

神奈川県横浜市出身。2歳上に兄がいる。早産で生まれ、幼少時は小さくか細かった。歩き出したのは1歳4か月になってからで、言葉を話し始めたのも同じ頃のことで「かなりのんびりした赤ん坊」だったという。

幼児期に入ると、ひとりで空想の世界に遊ぶことが大好きな子供になっていた。あるときにはディズニーの物語、別のときにはシンデレラや白雪姫などのおとぎ話、さらには自分で作り上げた架空の物語など、それぞれの世界で自らを主人公として遊んでいた。その世界に深く入り込んでしまった際には、しばしば耳元で大声を出して呼ばれないと現実に戻れないことすらあった。

母の木村公香は元バレエダンサーで、小牧バレエ団で舞台に立った後に東京バレエ学校(東京バレエ団の前身)でバレエを学び、それから専任のバレエ教師となってロシア人指導者のアシスタントを務めていた。木村は結婚後に2人兄妹の母となったが、体調を崩したためにバレエから一時離れて育児と家事に専念していた。

斎藤が物心ついたときには、木村がバレエを中断してから数年たっていたものの、家の中にはバレエ関連の書籍やレコードなどがたくさんあった。その中で幼少時の彼女がとりわけ好んでいたのは『ボリショイ・バレエ』という題名の写真集だった。特にエカテリーナ・マクシーモワとウラジーミル・ワシーリエフに惹かれていた。それだけにニコライ・フョードロフとの結婚後に、彼から2人を紹介されたときには驚いたという。そして2人は斎藤の恩人となり、大切な存在となった。

最初にバレエを始めたのは、通っていた幼稚園の講堂で時間外に開かれていたバレエ教室であった。当初木村はバレエを習いたいという娘の願いをなかなか聞き入れなかった。木村の真意は、いい加減な気持ちではバレエを絶対にやり通すことはできないというもので、斎藤も成長後にそれを理解したという。それでも1年後に木村はバレエを習う許可を与えた。

しかし、斎藤がバレエを始めてすぐに木村は重大なことに気づいた。ロシアではバレエ教師の資格を得るためには、大学で5年間専門の教育を受けた上に国家試験に合格する必要があった。対する日本では、バレエ教室を開くにも何の資格もいらず、「クラシック・バレエ」と銘打ちながらも実際にはジャズダンスやモダンダンス、果てはお遊戯と大差のないことをやっている教室すらあった。

そこで木村が出した答えは、自らがバレエ教室を開いて娘に正しいクラシック・バレエの基礎を教えるというものであった。1972年10月、木村は洋光台に「アトリエ・ドゥ・バレエ」を開いた。木村は東京バレエ学校でアレクセイ・ワルラーモフやスラミフィ・メッセレルの指導でワガノワ・メソッドを習得していたため、斎藤もこのメソッドを教わることになった。

斎藤が小学校3年生の頃には、木村の教室にも生徒が増えて50人ほどになっていた。この時期から親子であると同時に、師弟関係でもあるという点での難しさが表面化してきた。その葛藤とともに友人関係の難しさや思春期にみられる心身の不安定さが加わり、精神的に辛い時期に入っていた。小学校5年生のときにそれまで住んでいた横浜市金沢区から港南区に転居した。新しい学校にはバレエを習っている子がほとんどおらず、中学校では部活動中心の友人関係ができていて溶け込むことが困難だった。

心を閉ざしがちになっていた斎藤の救いは家族の存在であった。夕食のときは父母、同居の伯母(父の姉)、兄、そして斎藤自身が揃い、家族会議の場となっていろいろと話し合うのが習慣となっていた。斎藤も幼いなりに自分の気持ちや立場をわかってもらいたいと思い、知っている限りの言葉でその日のできごとなどを一生懸命に伝えた。学校などで嫌なことがあっても家族に聞いてもらえることが彼女の心の支えとなり、そして自分の考えを相手にわかるように伝えるための訓練にもなった。

中学校3年生になると、「私にはバレエがあるから」と吹っ切れて、精神的に随分楽になったという。そして友人たちも彼女を受け入れてくれた。きっかけの1つになったのは、中学校2年生のときに学校が行った進路調査だった。将来の進路について斎藤は「バレエダンサー」と迷わずに書いたが、周囲の同級生たちはほとんどがはっきりとした考えを持っていなかった。彼女は夢を確かな目標に変えるために進み始めた。

2人のバレエ教師

斎藤は10歳にもならない幼少期に、2人のロシア人バレエ教師と出会っている。最初は幼稚園のときに出会ったアレクセイ・ワルラーモフだった。ワルラーモフは木村と旧知の間柄で、そのため彼女は幼い斎藤を連れて彼に会いに行った。ワルラーモフは日本語で「ユカリさん、バレエをやっていますか?」と質問し、木村は「いいえ」と答えた。その答えにもかかわらず、ワルラーモフは「アラベスクで立ってみてください」と言い、斎藤は幼稚園で見たバレエ教室や本で見ていただけに過ぎない自己流のアラベスクを披露した。その姿を見たワルラーモフは、木村に対して「どうしてあなたはバレエを教えないのですか?」と尋ねた。そのやり取りがあってから間もなく、木村はバレエを習う許可を与えている。

1978年3月末、斎藤はワルラーモフと再会した。振付のために日本に滞在していた彼が病床に伏したという話を聞き、斎藤と木村は見舞いに行った。。ワルラーモフは斎藤を歓迎し、「あなたのためにモスクワで作ったトゥシューズです」と言って手渡した。渡された瞬間から、そのトゥシューズは彼女の宝物となった。用意してきた千羽鶴を手渡して木村がその意味について説明したところ、ワルラーモフは「ユカリさん、ありがとう。私は必ず治りますから、モスクワで会いましょうね」と感謝の言葉を述べた。しかし、ワルラーモフは帰国後間もない4月4日に死去している。


 

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