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飯伏幸太

飯伏幸太



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Wikipedia

飯伏 幸太(いぶし こうた、1982年5月21日 - )は、日本の男性プロレスラー。鹿児島県姶良市(旧:姶良郡姶良町)出身。血液型O型。AEW、飯伏プロレス研究所所属。

芸能活動においてはかつてはオスカープロモーションに所属していたが、新日本再入団後は同団体が提携するアミューズに移籍していた。

所属

  • DDTプロレスリング(2004年7月1日 - 2016年2月22日)
  • 新日本プロレス(2013年10月7日 - 2016年2月22日 、2019年4月20日 - 2023年1月31日)
  • 飯伏プロレス研究所(2016年2月23日 - 2019年4月19日、2023年2月1日 - )
  • AEW(2023年11月15日 - )
  • 来歴

    少年時代

    飯伏のプロレスとの出会いは3歳の頃であったが、プロレス好きであった父が見ていた地上波ゴールデンタイム放送のプロレス中継を一緒に見ていた飯伏は「あり得ないぐらい面白くない!」と、後のプロレス好きぶりからは考えられない反応を示していた。

    そんな飯伏にプロレス熱が生まれたのは小学5年生の1学期であり、レンタルビデオ屋で兄の希望で借りたプロレスのビデオを通じて興味を持った。夏休みに入るとプロレスごっこに夢中になりだし、この頃から「プロレスの魅力は受けだな」と思うようになった。

    小学校から中学校に進学する前の春休みに西日本プロレスを観戦、全試合終了後に強引に入門テストを受け、バク宙やムーンサルトプレスを披露して合格してしまった(結局「中学を卒業してから」と言われ、帰された)。1995年10月の新日本プロレス対Uインター全面対抗戦で上昇の一途をたどっていたプロレス熱が爆発した。この時プロレス好きの飯伏にとっては格闘技路線のUインターは目の敵であった。この時の様子を飯伏は「東京都下に住んでいたら新日本の旗を作って会場行ってたと思います。旗持って、大暴れしてましたね。まぁ全部ビデオで見たんですけど、結果、新日本が勝つわけじゃないですか…号泣ですよ、朝まで。何回も観ましたね。4の字で高田がタップ、はい号泣!巻き戻し!みたいな(笑)。途中から泣くために見ているようなもんでしたけど。感動でしたね?」と振り返っている。

    中学に入ってからはプロレスごっこに熱中し過ぎて周囲とコミュニケーションをほとんど取らなくなった。中学1年では受け身の練習をし過ぎて頭部へのダメージを感じ、中学2年生の頃から自重し、ジムに通って肉体作りに励んだ。3年生になると再び受け身の練習を始め、狂ったように垂直落下系にチャレンジ。柔道場や校庭でそれを繰り出すと、見に来た友人たちが大いに喜んだので、歓声がうれしくてまたトライし、その繰り返しであった。さらに中学校卒業後に新日本プロレスの入門テストを受けようとしたが、親に止められたため断念。

    中卒でのプロレス入りが叶わなかったことで一気にプロレス熱が下がった飯伏は、高校(鹿児島県立加治木工業高等学校)では「それでもいつかプロレスラーになれたら役立つかも」とラグビー部に入部した。高校卒業後は成田空港で旅客機の機内清掃を行う仕事に就くが、空港の入構パスを紛失するなどの失態を重ね、1年ほどで退職した。飯伏にしてみれば上京できれば仕事は何でも良かったという感覚であり、最初は初日で辞めるつもりであったが、初日に職場の仲間と仲良くなったため辞められず、初任給が出た1ヶ月後には給料が出たことに喜んでやめられなかったという。このころは寮暮らしであったこともあって給料をほぼすべて遊びに使うことができたため、それが楽しくてプロレスのことなどすっかり忘れていたという。時々は夢を思い出してプロレス団体に履歴書を送ったが、切手の貼り忘れや住所の書き漏らしなどで不首尾に終わった。

    プロレス入り前には新空手の大誠塾に所属していた。「ただでいいし通える範囲でいいから」とジムの会長から言われて始めた新空手であり、本人は「面倒くさいなって思いつつ、キックボクシングはプロレスの敵で嫌いだし。でも、もしプロレスに入ってキックボクサーと闘った時に役に立つなと思ったんですよ。プロレス最強説は残っていました。だから最強になるためには学んでおいた方がいいと」という感覚で取り組んでいた。通い始めて3回目くらいでいきなり試合を組まれたが、その試合はキックではなく総合格闘技であり相手は同じ65kg級ではなく75kg級であった。この試合は判定で勝ったがKOで勝てなかったことに納得がいかず、この一戦をきっかけにジムに本格的に通うようになった。新空手開始から4か月、再び試合を行うと今度は1分そこそこでKO勝利。しかしそのあとの19歳も終わりになった頃に戦ったトーナメント戦では1回戦敗退。自暴自棄になり、しばらく空港で働いていたころのように遊んでいたが、その頃のような楽しさはなかった。さらに20歳になって成人式に行くと、周囲がきちんとした人生を送っている中自分はダメ人間になっていると感じ、もう一度キックに打ち込もうと決意。その決意もあって、2003年7月21日の新空手道交流大会ではK-2トーナメント(中量級・15人参加)で優勝の経験をした(しかし翌日退団)。大誠塾の先輩にはキックボクサー寄本哲平が在籍し、アルバイトから練習を公私共に励んで来た時期がある。 また「SSS」という千葉のアマチュアプロレス団体に所属していたが、「朝起きたら(大会に同行するのが)面倒くさくなってしまった」という理由で、約1か月で退団している。

    DDTプロレスリング

    2004年

    • 7月1日、DDT後楽園ホール大会でKUDO相手にデビュー。本人はこの時「散々キックで苦労してようやく優勝にたどり着いたのに、その遥か上にあるプロレスで上位に食い込めるわけがない。デビューしたらやめよう」と考えていたが、結局デビュー戦が楽しすぎたのでプロレスを続けることにした。高木三四郎は飯伏の才能を高く評価していたが、飯伏の性格から、普通の新人と同じように育てたらプロレスを辞めるだろうと考え、新人レスラーが行う雑用等の仕事をさせずに、好きなようにやらせたという。

    2005年


     

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