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カブキグラス5周年

ヴィヴィアン・リー



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Wikipedia

ヴィヴィアン・リーVivien Leigh, Lady Olivier、1913年11月5日 - 1967年7月8日)は、イギリスの女優。1939年の映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役と、1951年の映画『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワ役でアカデミー主演女優賞を受賞した。『欲望という名の電車』は、1949年にロンドンのウェスト・エンドで上演された舞台版に引き続いてリーがブランチ・デュボワを演じた作品でもある。また、1963年のブロードウェイ・シアターで上演されたミュージカル『トヴァリッチ (en:Tovarich (musical))』で、トニー賞のミュージカル主演女優賞を受賞している。

リーは演劇学校を退学後の1935年に4本の映画に端役で出演し、1937年の映画『無敵艦隊』のヒロインに抜擢された。この作品でリーの美貌が評判となったが、リー自身は容姿ばかりが注目されることが必ずしも女優としての成功につながるとは限らないことを危惧していた。映画女優として有名となったとはいえ、リーは活動の主軸を舞台においており、30年にわたる舞台女優としての活動で幅広い役柄を演じた。ノエル・カワードやジョージ・バーナード・ショウらの戯曲をはじめ、演目もコメディから古典劇、たとえばウィリアム・シェークスピアの戯曲『ハムレット』におけるオフィーリア、『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラ、『ロミオとジュリエット』のジュリエット、『マクベス』のマクベス夫人や、ジャン・アヌイがソフォクレスの「アンティゴネ」を翻案したアンチゴーヌなどを演じた経験がある。

リーは、当時の一般大衆からはイギリスの名優ローレンス・オリヴィエの二度目の妻としての印象を強くもたれていた。リーとオリヴィエは多くの舞台作品で共演し、映画作品でも三度共演している。リーとオリヴィエの結婚生活は1940年から1960年まで続いたが、リーは徐々に双極性障害に悩まされるようになっていった。女優業を続けるのは難しいのではないかといわれ、女優としての仕事量の減少を経験した時期もあった。また、1940年代半ばごろからは慢性の結核の発作に見まわれるようになり、最終的にはこの慢性結核がリーの死因となった。1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」では女優部門の16位にリーが選ばれている。

前半生

リーは1913年11月5日に、イギリス領インド帝国ダージリンのセント・ポール・スクールの寄宿舎で生まれた。父親の英印軍騎兵隊将校アーネスト・ハートリーと母親のガートルード・メアリ・フランセスとの間に生まれた一人娘で、ヴィヴィアン・メアリ・ハートリーと名づけられた。母親のガートルードは敬虔なローマ・カトリック教徒であり、自身の家系はアイルランドとアルメニアを祖とすると信じていたが、旧姓「ロビンソン・ヤーチ(Robinson Yackje)」のYackje(Yackjeeとも表記)から、インド人との混血である可能性が指摘されており、また、それがリーの東洋的美貌の理由であるとも言われている。アーネストとガートルードは1912年にロンドンのケンジントンで結婚し、その後イギリス領インド帝国に駐留していた。

1917年にアーネストはバンガロールへの転属を命じられたが、妻ガートルードと幼いヴィヴィアンをウダカマンダラムに残したままの単身赴任だった。。ヴィヴィアンは3歳のときに母親が加入していた素人劇団の舞台に立ち、イギリス童謡の「ちっちゃな羊飼い (en:Little Bo Peep)」を歌っている。ガートルードはヴィヴィアンに文学の教養を身につけさせようとして、アンデルセン、ルイス・キャロル、ラドヤード・キップリングといった作家たちの子供向け文学作品だけでなく、ギリシア神話やインドの民間伝承なども読み聞かせていた。6歳のときにヴィヴィアンは母ガートルードの意向でインドを離れて、それまで通っていたダージリンの学校からロンドン南西部のローハンプトン (en:Roehampton) のカトリック女子修道院付属学校(現在のウォルディンガム女学校 (en:Woldingham School)) に転入した。この学校で知り合った友人に、後に女優となる2歳年上のモーリン・オサリヴァンがおり、ヴィヴィアンはオサリヴァンに「立派な女優」になりたいという夢を語っている。その後ヴィヴィアンは父アーネストのヨーロッパ旅行についていくかたちで修道院付属学校を退校した。ヴィヴィアンは父に従ってヨーロッパ各地の学校を転々とし、アーネストとヴィヴィアンがイギリスに戻ったのは1931年のことだった。そして、ロンドンのウエスト・エンドで上映されていた、すでに女優としてデビューしていたオサリヴァンが出演していた映画を観たヴィヴィアンは、両親に女優になりたいという望みを告げた。ヴィヴィアンの願いを聞いたアーネストは、ヴィヴィアンをロンドンの王立演劇学校へと入学させた。

ヴィヴィアンが13歳年上の法廷弁護士ハーバート・リー・ホルマンと出会ったのは1931年のことである。ハーバートは「役者」を嫌っていたが、1932年12月20日に二人は結婚し、ヴィヴィアンは王立演劇学校を退学した。そして1933年10月12日にヴィヴィアンは一人娘スーザンを出産した。数十年後にスーザンは結婚し、リーの孫となる子供を三人出産している。

女優としてのキャリア初期

ヴィヴィアンは友人たちの勧めで、1935年の映画作品『Things Are Looking Up』に出演し、この作品の端役で女優としてデビューした。ヴィヴィアンが契約していた代理人のジョン・グリッドンは「ヴィヴィアン・ホルマン (Vivian Holman) 」という名前が女優として相応しくないと考えた。グリッドンが考えた「エイプリル・モーン」という名前が気に入らなかったヴィヴィアンは、夫ハーバートのミドルネームの「リー」をラストネームに借用し、さらに自身のファーストネーム「ヴィヴィアン(Vivian )」の綴りの「a」を「e」に変更して「ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)」という芸名を名乗ることを決めた。グリッドンはリーを映画女優として映画監督アレクサンダー・コルダに推薦したが、このときコルダはリーに将来性が欠けているとして出演を断っている。1935年に舞台作品『美徳の仮面 (The Mask of Virtue)』に出演したリーは高い評価を受け、複数のインタビューや新聞記事にとりあげられた。タブロイド紙『デイリー・エクスプレス』のインタビュー記事ではリーのことを「すばやくころころと変わる表情」と表現している。この記事が、後にリーの特徴となっていく「気まぐれ」に最初に言及した公的なコメントだといわれている。のちに桂冠詩人の称号を手にするイギリスの詩人ジョン・ベチェマン (en:John Betjeman) は「典型的なイングランドの少女」であるとリーのことを言い表している。以前に自身が監督する映画作品へのリーの出演を断ったコルダも、開幕初日にリーが出演する『美徳の仮面』を観劇した。そしてコルダは過去の過ちを認め、リーの映画出演契約書にサインした。『美徳の仮面』はヒットを続け、コルダの計らいで規模の大きな劇場で上演されることとなった。しかしながら当時のリーの声質は大規模な劇場に適しているとはいえなかった。リーの演技は十分に観客をひきつけることが出来ず、『美徳の仮面』は間もなく終演となってしまっている。

1960年にリーはこの当時のことを回想している。デビュー間もない自分が批評家たちから高く評価され、突然有名になったことに戸惑っており「私が優れた女優だなどと無責任なことをいう批評家もいました。なんと無責任で不道徳ともいえる発言でしょう。当時の私にとってそういった言葉がどれだけ重荷で負担になったことか。耐えられませんでした。このような最初の評価になんとか応えられるようになるまで、何年もかかったのです。ほんとうに馬鹿げた話です。今でもそのときの批評家をはっきりと覚えていますし、生涯許すことはないでしょう」と語っている。

ローレンス・オリヴィエとの出会い

『美徳の仮面』でリーを観たイギリスの俳優ローレンス・オリヴィエはリーの演技を賞賛し、それから二人の交友が始まった。オリヴィエとリーは、初めての共演となる1937年の映画『無敵艦隊』で恋人同士を演じた。当時のリーはハーバートと結婚しており、オリヴィエも女優ジル・エズモンドと結婚していたが、オリヴィエとリーは不倫関係に陥っていった。この当時のリーはマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』を読んでおり、この小説の映画化を企画していたプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックにアメリカの代理人を通じて面会を求めている。リーはマスコミに「スカーレット・オハラを演じたい」と公言していた。イギリスの新聞「オブザーバー」の映画評論家キャロライン・アリス・レジュネ (en:C. A. Lejeune) は、当時リーが「(オリヴィエは)レット・バトラーを演じないでしょうけれど、私はスカーレット・オハラを演じることになるわ。見ていてくださいな」と言い放ったことに「皆が愕然とした」と振り返っている。

1937年にリーとオリヴィエは、デンマークのヘルシンゲルで上演される『ハムレット』で共演した。ロンドンのオールド・ヴィック・シアターが企画したこのシェークスピア原作の舞台劇でリーはオフィーリアを演じた。後にオリヴィエはこのときの上演で、舞台に登場する前のリーが「気まぐれ」で起こした事件を回想している。何も怒らせるようなことをしていないにも関わらず、リーがオリヴィエに向かって怒鳴りだし、突然黙り込んだと思ったら虚空を見つめだしたことがあった。しかしながらリーは翌日には何も覚えておらず、いつもどおりに何事もなく舞台を務めあげたという。オリヴィエにとって、この出来事がリーの突拍子もない言動を目にした最初の経験となった。

リーとオリヴィエは同棲をはじめたが、どちらの配偶者も離婚を拒否した。当時の道徳的見地からの非難を恐れて、映画会社は二人の関係を大衆には隠し通そうとした。私生活では問題をはらんでいたリーだったが、女優としては1938年の映画『響け凱歌』に出演し、ロバート・テイラー、ライオネル・バリモア、モーリン・オサリヴァンと共演している。この『響け凱歌』はリーの出演作品としては最初にアメリカで注目を集めた映画となった。この作品の撮影中にリーは、扱いが難しく理不尽だと囁かれるようになった。コルダはリーの代理人に対し、リーの言動が改まらないのであれば契約を更新しないと警告している。予定されていたリーの次回作は、コルダと親交があったチャールズ・ロートンが製作と主演を担当する、1938年の映画『セント・マーティンの小径 (en:Sidewalks of London)』のヒロインであるリビー役だった。


 

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2018年10月20日 (土)
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