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竹宮惠子



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Wikipedia

竹宮 惠子(たけみや けいこ、1950年2月13日 - )は、日本の漫画家。京都精華大学名誉教授、元学長。1980年頃、竹宮恵子から改名。徳島県徳島市出身、福岡県朝倉市在住。

来歴

2人姉妹の長女として徳島市に生まれる。父の竹宮義一は陸軍軍人で、スパイやゲリラ戦の要員を育てる陸軍中野学校二俣分校一期生であった。

5歳頃から日常的に漫画を描くようになり、初期はわたなべまさこを手本にしていた。貸本屋で、記念日に親が漫画単行本や漫画雑誌を借りてくれ、日常は散髪屋で集中して読み、石ノ森章太郎から小島剛夕といった劇画まで選り好みせず読む子供時代を送った。小学1年生の時に描いた絵日記にはグランドピアノが既に立体的に描かれていた。小学3年生の時に北島町へ移り住む。

中学時代から本格的に描き始め、30ページくらいのストーリー漫画を描く。中学2年生で講談社新人賞に応募するが落選、名前だけが載り、漫画家にあこがれるようになり、週刊誌連載を目標にする。高校生になって、1965年、石ノ森の『マンガ家入門』と『龍神沼』を読み大きなショックを受け、石ノ森作品を端から読むようになる。石ノ森に「漫画を共に描く仲間が欲しい」と手紙を送ると、石ノ森から紹介された漫画を描いているグループの人達から手紙が届くようになり、「石森ファン筆頭」の同人誌『宝島』グループに参加し、どんどん投稿する。修学旅行で上京した際に同人誌仲間に会い、どうしても行きたいと願って、グループの仲間に連れられ石ノ森の自宅を訪れて、石ノ森は少し顔を見せてくれた。後に「永井豪が男性の一番弟子なら、私は女性の一番弟子で優等生」と語っている。

高校時代、自分の力を知りたくて『COM』の読者投稿広場「ぐら・こん」に頻繁に投稿する。1967年、17歳で「ここのつの友情」が月例新人賞に佳作入選する。ちなみに初めて買った雑誌が『COM』であった。クラブは映画でフランスが好きになり、フランス語クラブに入り、文化祭の時に集客に絵を描くよう勧められ、少女の絵と吹き出しにフランス語を描いた。

1968年1月、「りんごの罪」が『週刊マーガレット』の新人賞に佳作入選し掲載され、漫画家デビューする。高校2年のときに漫画家になると決意するが、同年4月、親からの説得と、ぎりぎりまで迷ったが漫画だけの人間になりたくないと、徳島大学教育学部(現・総合科学部)美術科に入学し、学業と平行して『COM』等への投稿を続ける。この頃『COM』の縁で手塚治虫から『週刊少女コミック』の編集者、山本順也を紹介される。学生運動に参加して考えるため1年間漫画を描くのを休み、その間の対話と模索で運動ではなく漫画で革命を起こそうと決意する。漫画再開後に、徳島まで出向いてきた山本に「何か新しいことがしたい」と『週刊少女コミック』で描くように説得され上京を決意する。

1970年、『週刊少女コミック』に『森の子トール』の連載を始め、5月に大学を中退し上京。10月には講談社の編集担当が原稿見せに上京していた萩尾望都に一日だけの臨時アシスタントを依頼し、派遣されたことで知り合った萩尾望都に声をかけ、後に竹宮のマネージャー兼原作者となる友人の増山法恵と萩尾がペンフレンドだったこともあり、その導きで東京都練馬区南大泉の増山宅の斜め向かいの共同アパートで同居を始め、増山ら友人達から様々な文化的知識を吸収した。そこに増山がサロン化を計画して、2人にファンレターを出した者の中から選んで声をかけ、同年代の女性少女漫画家を集め、拠点となった時の大泉のアパートは「大泉サロン」と特定できないがメンバーが名付けて、集まったメンバーは後に「24年組」と呼ばれた。このグループで45日間のヨーロッパ旅行にソビエト連邦のハバロフスク経由モスクワ回りでパリ周回で行き、竹宮始め、24年組がヨーロッパを舞台にした漫画を描く原動力になった。

上京後、萩尾望都の才能と比べて焦る気持ちから大泉サロンは2年間で解散するが、思うように作品が描けない重症のスランプに3年間ほど陥り、そのために自律神経失調症を患い、体重が40kgを切ってしまう。しかし、この状態を克服するためにいったん休むと発表の機会がなくなると休養ではなく、週刊誌連載が一時空くと、月刊誌2カ月3作読み切りのペースで描き、継続して漫画を描くという手段を選び執筆を続け精神を持ちこたえる。『週刊少女コミック』の新担当者から好きなテーマの作品を書くには、読者アンケートでトップを取ることだとアドバイスされ、1974年には『ファラオの墓』を描いてヒットさせ、アンケートで最高時は2位になる。この作品で、戦闘シーンなど知識が不足する部分は、編集者を通じて脚本家などにアドバイスやアイデアをもらうブレーン手法を知り活用する。稲垣足穂などを研究し耽美的なものが受けるとも思っていた。これで同誌企画会議に通って、7年間に渡る念願の構想を実現して、1976年に『風と木の詩』の連載を開始。これを、今までの少女漫画のレベルを超えた小さな革命と自負し、少年の同性愛を耽美に描き、漫画界に衝撃を与えた。

1977年、『月刊マンガ少年』にてSF作品『地球へ…』の連載を開始。同年に萩尾望都も、少年誌に同様に連載していたが、少女漫画家が少年漫画誌で連載を持つことは当時としては画期的であった。

1978年、『地球へ…』が第9回星雲賞コミック部門受賞。

1980年、『風と木の詩』『地球へ…』で、第25回小学館漫画賞を受賞。同年、『地球へ…』が東映によってアニメ映画化された。

1997年、エルメスのフランス本社の社長から依頼され、エルメスの社史を漫画にした『エルメスの道』を発表。本作が京都精華大学マンガ学部長であった牧野圭一に評価されたことがきっかけとなり、2000年に京都精華大学マンガ学部の教授に就任。漫画家として日本初の大学の専任教員となった。また原画保護のために、精巧な複製原画である「原画´(ダッシュ)」の制作研究も行う。

2007年、『地球へ…』が発表から30年の時を経てテレビアニメ化された。

2008年、京都精華大学マンガ学部の学部長に就任。神奈川県鎌倉市の自宅から新幹線で大学に通い、週の半分は京都にいる多忙な生活を送っていた。講義では、学生の作画のコマ割り、吹き出し入りのレイアウトを見て、アドバイスする実技や、「脚本概論」で、経験から無視され苦しむので、脚本の蓄積されてきた手法を学ぶ大切さを教え、目に見えない感情や思いを表し伝える「芸術印象点」を高めるよう強調し、特色を出していた。後に妹夫婦の住む福岡県に移住し、同居生活を送る。

2013年11月、京都精華大学の次期学長に選出された。2014年4月就任し、任期は4年間で2018年3月末で1期勤めて退任した。

2015年 - 2017年、文部科学省中央教育審議会委員。


 

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