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小倉久寛



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Wikipedia

小倉 久寛(おぐら ひさひろ、1954年10月26日 - )は、日本の俳優、声優、ナレーター。体重70kg。血液型A型。所属はアミューズ。

三重県度会郡紀勢町(現大紀町)出身。三重県立伊勢高等学校、学習院大学卒業。

来歴・人物

紀勢町には多くの小倉姓の家があり、その由来は滋賀県の鈴鹿山脈にある小椋谷の木地師が木材を求めて移住したものと考えられている。久寛の家は江戸時代には木地師を辞めて林業を経営しており、祖父は紀勢本線を利用した石灰の採掘で財を成した。久寛の父は次男だったが、彼が中学の学生の時に実家の跡を継ぐはずだった長男が採掘所の落石事故で死亡したため、大学を出たら家業を継ぐことになった。同志社大学英文科で英文と哲学を学んだ後に家業を手伝うが、勉学への情熱は冷めず、「日本で最難関の試験に挑戦して鍛えたい」という理由で司法試験合格を目指して独りで上京。中央大学の司法試験受験志望者の勉強会「真法会」に入り、そこで懇意になった者達と小さな勉強会を作り1960年から試験に挑み続けるも、2年後にそのメンバーの中で自分だけ不合格になったため帰郷。その後も司法試験に挑み続けるも挑戦から10年目、久寛の中学進学を機に諦めた。近所からは法律に詳しい人として頼りにされていた。

幼少時に力道山に憧れプロレスラーになろうと決意、腹筋運動など毎日トレーニングを行い、鉄下駄を着用していた。腹筋が割れるほどにまでなったが、背が伸びなかった。アントニオ猪木が好きだったという。

1964年東京オリンピックを見て遠藤幸雄に憧れ、中学校で器械体操を始めたが、その時は1年で廃部となったためバレーボールに転向した。

高校では同級生360人中320位という成績だったため、担任教師から「大学受験しても受験料の無駄」とまで言われるが強行、複数の大学を受験する。滑り止めは全て不合格だったが、偶然受験直前に見た参考書と全く同じ英語問題が出題されたことが幸いし、学習院大学に合格する。

入学後、『空手バカ一代』に影響され、空手部に入部(三段を所有)。同時に女性からモテることを期待して陶芸部にも在籍。この時50人の部員中男性はわずか7人という状況であったがモテずにいた。

同大学在学中に中村雅俊主演のテレビドラマ『俺たちの祭』に影響され役者を志し、たまたま「ぴあ」で団員を募集していた「大江戸新喜劇」に入団、そこで知り合った三宅裕司が『スーパー・エキセントリック・シアター』(SET)を旗揚げした際に斉藤洋介らとともに移籍する。大学卒業後、両親に役者希望であると告げられず、一旦は就職するもわずか2ヶ月で退職、役者に専念した。SET草創期は「3畳一間家賃9千円の建物が傾いたアパート住まい」など貧乏暮しを経験するが、1980年代中盤からバラエティ番組を中心にテレビ出演が増え、1986年にはNHK『ヤングスタジオ101』の司会に抜擢。1989年には『夢見通りの人々』にて映画初主演を果たす。

1994年、12歳年下の宝塚歌劇団卒業生・速水渓と結婚。

趣味は陶芸、プロレスやプロ野球の観戦、サクソフォーン(サックス)の演奏など。またエレキギターも得意としている。

エピソード

  • 子供の頃、実年齢より老けて見られていて、高校時代のあだ名は「オッサン」だった。20歳の時に40歳に間違えられたこともあった。
  • 長い間『ペット大集合!ポチたま』においてラブラドール・レトリバーのまさお君(だいすけ君も含む)にアテレコを担当。
  • 夫人には初デート時から「結婚してください」と求婚し続けており、本人曰く「100回以上は言った」とのこと。
  • 結婚発表の際にはマスコミから「美女と野獣」などと称された。
  • 頭の鉢が大きく、このため、時代劇出演の際の鬘も床山が苦労するほどだと言う。
  • 「笑っていいとも」のしゃべるサックスで人気を獲得した。

 

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