山口良一(やまぐち りょういち、1955年〈昭和30年〉3月27日 - )は、日本のタレント、俳優、歌手、リポーター、司会者。広島県広島市基町(現:広島市中区基町)出身。劇団東京ヴォードヴィルショー所属。オフィスPSC業務提携。東京都在住。既婚。
来歴
- 広島市基町にあった市営住宅の育ち。6歳まで過ごした家が現在の広島県立総合体育館、上京するまで過ごした家は、現在のひろしま美術館の玄関あたりにあったという。広島市立袋町小学校〜広島市立国泰寺中学校〜広島市立広島工業高等学校建築科卒業。
- 高校卒業後、きもののやまと梅田店・広島駅ビル店(後のASSE)にそれぞれ半年間勤務する。1974年、19歳半の時に上京。1977年に東映演技研修所に入所し、2年間通う。1979年、佐藤B作率いる劇団東京ヴォードヴィルショーに入団。1981年1月6日、劇団の先輩女優と結婚。1983年2月、娘が生まれる。
- 無名時代には『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(日本テレビ系)内の再現フィルムに出演したことがある。
- 1981年、フジテレビ系列のバラエティ番組『欽ドン!良い子悪い子普通の子』のヨシ夫役でブレイクを果たす。頭は良いが運動のほうはさっぱりという印象だったが、バック転を披露して観客を唸らせた。同年には共演した西山浩司、長江健次と「イモ欽トリオ」というユニットを組み、当時流行のテクノを取り入れたシングル『ハイスクールララバイ』をリリース。オリコンチャートで1981年の年間第4位となるヒットを飾った。
イモ欽トリオのデビューシングル『ハイスクールララバイ』のジャケットで山口のプロフィールの生年月日は「不明」と記載された。これは当時、年齢不詳の謎の高校生というキャラクター設定のためあえて公表していなかったものである。視聴者から事実を問うはがきが多数届いたため、番組内で上記の理由とともに実年齢を明かし、さらに妻帯者であることを公表した。客席からは当初どよめきが起こったが、概ね好意的に受け入れられて最終的には拍手を得た。「良い子」のトレードマークだったメガネは『欽ドン!』の終了後も掛け続けていたが、現在は外している。1982年、ニッポン放送のラジオ番組『オールナイトニッポン』のパーソナリティを担当する。同年4月6日に火曜2部で放送開始、同年10月に金曜1部に移った。自他共に認めるプロレス好きであるため、番組でもプロレス絡みの話題が尽きなかった(「山口良一のオールナイトニッポン#プロレスアワー → 闘魂スペシャル」参照)。1987年7月から2000年12月まで『クイズところ変れば!?』(テレビ東京系)の司会を務めた。のちに出演した『オールスター感謝祭』(TBS系)では、司会を務めていた島田紳助から「『クイズところ変れば』代表の方ですか?」と言われたことがある。現在は舞台を中心に俳優として活動するほか、『噂の!東京マガジン』(TBS系)や旅番組のリポーター、落語の高座なども勤めている。花王の入浴剤「バブ」のCMでは、様々な現場で働く人物をリポートするシリーズにもレギュラー出演した。2019年6月1日よりオフィスPSCと業務提携。人物
- 広島東洋カープの大ファン。上京するまでは広島市民球場のすぐ近くの5軒長屋の市営住宅に住んでいた。ただし、広島で暮らしていた頃はカープのファンではなかった。
- 2歳上の姉がいる。父は高校3年次(17歳)の時に49歳で他界している。
- 少年時代の夢は落語家で、中学の終わり頃にはそうなろうと決心していた。そのため大学へ進学する気は無く、普通高校へ行ってもしょうがないと思ったため進学先に工業高校を選んだ。高校生時代の部活も落語研究会。高校2年生の時大阪へ来た際に、公衆電話から桂米朝に弟子入り志願をしたことがある。この時は電話口に米朝が直接出て話をすることが出来たが「そない大事な話を電話でして来るんは失礼や」と?られ「まだ高校生やったら帰ってちゃんと勉強しなはれ」などと諭された。しかし本人はそれ以上何も言えず、弟子入りをあきらめた。「この時もう少し粘っていたら落語家になれていたかも」と話していたことがある。
- 剣道2段。中学から高校2年2学期まで剣道をしていた。
- 趣味はバイクで、バイク関連のテレビ番組への出演も多い。国産車・外国車を合わせ多数を所有していた時期もある。仕事場への移動にもバイクを利用することが多い。また、銭湯好き、相撲好きである。下戸。
出演
ラジオ番組
- るんるんナイト 清六・山口 おじさんワオ!(TBSラジオ)
- 榊原郁恵 レディーのときめき(TBSラジオ)