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熊野本宮大社

熊野本宮大社



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Wikipedia

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は、和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野速玉大社・熊野那智大社と共に、熊野三山を構成している。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。かつては式内社(名神大社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の1つ。

歴史

詳しい創建年代は不明であるが、社伝によると崇神天皇65年に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建されたとされている。

「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明である。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中洲に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。家都美御子大神については他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係するとの説もあるが、やはりその素性は不詳とされる。

古代から中世にかけて、神職はニギハヤヒの後裔で熊野国造の流れを汲む和田氏が世襲し、平安時代には式内社(名神大社)に列せられている。

平安時代の末期には鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇などが幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。

1871年(明治4年)に熊野座神社(くまのにますじんじゃ)として国幣中社に列格した。

熊野川の中洲に上四社、中四社、下四社を始め拝殿や様々な社殿が立ち並んでいたが、1889年(明治22年)8月に発生した十津川大水害により、上四社以外の建物は全て流されてしまった。明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされたもようである。残された上四社は現在地に移転したが、中四社、下四社と様々な摂末社の再建は行われなかった。旧社地の中洲は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、中四社、下四社と摂末社の祭神を祀る2基の石祠が建立された。

1915年(大正4年)には官幣大社に昇格している。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。

2000年(平成12年)、大斎原に鉄筋コンクリート造の日本一高い大鳥居(高さ33.9m、横42m)が建てられた。

かつては湯立が行われており、「熊野権現垂迹縁起」では大斎原が「大湯原」と表記されていることや、熊野をユヤと読む際に湯屋や湯谷の字をあてられたことなどから、熊野信仰の中核に湯の観念があったことが指摘されている。

八咫烏

日本を統一した神武天皇を大和国の橿原(現・橿原市)まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として八咫烏には篤い信仰がある。八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味である。太陽の化身で三本の足があり、それぞれ天・地・人をあらわす、といわれている。

JFA(日本サッカー協会)のマークも八咫烏である。多くのサッカー関係者が必勝祈願に訪れている。

ちなみに、サッカーを初めて日本に紹介した中村覚之助(1878年 - 1906年)は那智町(現・那智勝浦町)の出身。JR西日本那智駅前には「日本サッカーの始祖 中村覚之助」と刻まれた顕彰碑がある。

祭神


 

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