CLOSE

CLOSE

ジャンル別公演チケット

エリア別公演チケット

条件別公演チケット

HOME > ジャン・ジロドゥ

ジャン・ジロドゥ

ジャン・ジロドゥ



※本ページは、人物/団体の名前でWikipedia、Google画像、YouTube検索等を行い、
その結果を自動的に取得・表示しています。


 

Wikipedia

ジャン・ジロドゥJean Giraudoux、1882年10月29日 - 1944年1月31日)は、フランスの外交官・劇作家・小説家。オート=ヴィエンヌ県の小都邑ベラック生まれ。ナチス占領末期のパリで死去。

経歴

1882年、土木監督の父レジェ(L?ger)と母アンヌ・ラコスト(Anne Lacoste)との間に生まれ、父の転勤にしたがう。

1887年、アンドル県ペルヴォアザン(Pellevoisin)の小学校へ入る。

1893年、アンドル県シャトールーのリセ(現在のリセ・ジャン・ジロドゥ・シャトールー(Lyc?e Jean Giraudoux Ch?teauroux))に進む。戯曲作りをこころみる。

1898年、シャルル=ルイ・フィリップとエドモン・ロスタンとから、励ましの返書をもらう。

1900年、パリのリセ・ラカナル(Lyc?e Lakanal)に、給費生として移る。1901年、リセを卒業して兵役につき、1903年除隊後、パリの高等師範学校に進む。ドイツ語の優等賞を受け、1905年首席で卒業、給費生としてミュンヘンに留学し、ついで東欧・南欧に遊ぶ。

1906年、ハーヴァード大学のフランス語教師として渡米し、1907年帰国し、ル・マタン紙の文芸担当記者に就職する。小説を書き進める。

1909年、小説集『田舎の人々』を出版。売れ行きはよくなかったが、アンドレ・ジッドの目にとまる。

1910年、外務省政治経済局副領事見習生となり、かたわら小説を発表し、注目され始める。

1914年、第一次世界大戦に出征して負傷、入院する。1915年、ダーダネルスで諜報活動にしたがい、ふたたび負傷、パリに戻る。レジオン・ド=ヌール勲章コマンドゥールを受ける。1916年、教導士官としてポルトガルへ、ついでアメリカへ派遣される。

1918年、大戦終結、結婚。

1919年、外務省に復帰する。長男誕生。1920年、フランス海外事業局(Service des ?uvres Fran?aises Etrang?re)に入り、翌1921年、局長となる。1922年、小説『ジークフリートとリムーザン人』を出版し、バルザック賞を受ける。

1924年、駐独大使館秘書官としてベルリンに赴任。短期間で戻り新聞情報局長となる。1926年 - 1933年、連合国損害評価委員会(Commission d'?valuation des dommages)委員を勤める。

1927年、演出家・俳優のルイ・ジューヴェを知る。ジューヴェは当時、シャンゼリゼ劇場内のコメディ・デ・シャンゼリゼに一座を構えていた。ジロドゥは、ジューヴェに励まされながら、『ジークフリートとリムーザン人』をもとに台本を練り、1928年5月3日、初戯曲『ジークフリード』の初演に漕ぎつけた。成功であった。「この芝居はジューヴェと一座の人々とが作り上げた。台本は無署名がふさわしい」とジロドゥは記した。

以降ジロドゥは、次々と戯曲を書き、ほとんどをジューヴェ一座が上演し、さながら同座の座付作者であった。ほとんどが好評であった。台本にト書きが少ないのは、一座の意見を入れては訂正を重ねたためという。ギリシア神話や旧約聖書などを下敷きにした反リアリズムの、新鮮な作風であった。上演の記録は、次項の「戯曲」にある。

1934年、外交官・領事の監督官となる。1936年、世界一周旅行をする。

1939年、第二次世界大戦の勃発と共に、ダラディエ首相に乞われ情報局長となり、ラジオ放送でナチスと対抗するが、1940年3月、ドイツ軍侵入による内閣の退陣とともに、辞職する。6月のフランス降伏後、一時、地方に疎開して、間もなくパリに戻る。


 

取扱中の公演・チケット情報

現在取り扱い中の公演はありません。