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竹内雅人



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Wikipedia

雅山 哲士(みやびやま てつし、1977年(昭和52年)7月28日 - )は、茨城県水戸市出身の元大相撲力士。本名は竹内 雅人(たけうち まさと)。現在は年寄・二子山として後進の指導にあたっている。

来歴

怪童、焼肉のために相撲

1977年(昭和52年)7月28日に茨城県水戸市で生まれる。実家は茨城県内にバス路線網を持つ旧茨城交通グループのオーナー一族である。小学生時代に「相撲で勝ったら焼肉食べ放題に連れて行ってやる」と言われたことがきっかけで相撲を始め、「水戸尾曽相撲道場」で指導する武双山正士の父親によって強くなった。雅山が幼少期に好きだった力士には琴椿克之を挙げている。水戸市立見川中学校時代は柔道部に在籍していたが、柔道部の顧問に直談判して相撲部を創設してもらったという。明治大学進学後、1997年(平成9年)9月の東日本学生相撲個人体重別選手権無差別級と1998年(平成10年)4月の全日本大学選抜相撲宇和島大会でそれぞれ優勝して大学二冠を達成すると、大学を3年で中退して武蔵川部屋へ入門、同年7月場所に幕下付出で初土俵を踏む。当時の幕下付出の条件としては1997年(平成9年)の全日本相撲選手権大会で3位入賞の実績を残していたが、それを上回る輝かしい実績を引っ提げての入門だった。また、中学時代からのライバルだった岡部(東洋大学)も中退して角界入りしていたことも動機の一つだった。

武蔵川部屋では、学生相撲出身者に有りがちな立ち合いの甘さを厳しい指導で真っ先に改善させ、初土俵を踏んだその場所と同年9月場所の2場所連続で全勝優勝を決め、同年11月場所ではあっという間に十両に昇進した。その勢いは止まらずに同場所を12勝3敗で3場所連続優勝、1999年1月場所は西十両筆頭の地位で幕内力士との対戦もある中で14勝1敗の好成績を残し、4場所連続優勝を果たすと同時に新入幕を確定させた。あまりにも早過ぎる昇進のために丁髷が追い付かず、長髪の荒々しい風貌から「20世紀最後の怪物」と呼ばれ、右肩の瘤が印象的な力士だった(現在は度重なる手術で小さくなっている)。新入幕の同年3月場所は幕内力士との力の差もあって二桁勝利はならなかったものの、9勝6敗で敢闘賞を受賞、初土俵から所要5場所での三賞受賞は、2014年現在の最速記録である。

怪童から「お荷物」へ

2000年(平成12年)1月場所は新小結かつ優勝次点となる12勝3敗の好成績を残すと、同年3月場所および5月場所は関脇で11勝4敗、この時点で大関昇進の基準とされる「三役の地位で直近3場所の合計が33勝」を満たしたため、5月場所終了に大関昇進が決定する。初土俵から所要12場所での大関昇進は史上1位のスピード出世であるが、ここまでは相撲そのものに強みが無く勢いのみで勝ち続けた面があり、当時の武蔵川部屋には横綱・武蔵丸光洋、大関・武双山正士、出島武春がおり、「この3力士と対戦せずに3場所34勝(での昇進)は物足りない」という意見も存在した。通常ならば大関昇進を諮る理事会において「満場一致での推挙」となるのが普通だが、10名の理事のうち3名が反対を表明する異例の事態となるなど、その行く末は当初から不安視されていた。

その不安は的中してしまい、2000年(平成12年)7月場所では初日の栃東大裕戦で右肩を負傷した影響が最後まで響き6勝9敗と負け越し、同年9月場所はいきなりの角番となってしまう。この場所は勝ち越して角番を脱出するも8勝7敗の成績で、本来の大関の成績とはかけ離れたものとなった。その後も負け越しては角番脱出を繰り返し、3度目の角番として迎えた2001年(平成13年)9月場所では序盤戦から全く波に乗れず、9日目の海鵬涼至戦で左足首関節および左足根骨脱臼の重傷を負って途中休場、同部屋の出島と共に大関陥落となった。大関在位は僅か8場所となり、短命大関としての順位は年6場所制となった1958年(昭和33年)以降、大受久晃(5場所)・増位山太志郎 (7場所)に次いでワースト3位の不名誉記録となった。また、大関在位期間中の二桁勝利が一度も無く、通算成績も57勝58敗5休と負け越すなど大関らしからぬ成績を残すことになった。そのため、相撲雑誌の有識者による座談会ではかつてのキャッチフレーズにかけて「21世紀最初のお荷物」などと言われる有様だった。

大関を破って再挑戦

関脇陥落となって迎えた2001年(平成13年)11月場所は公傷による全休が適用され、2002年(平成14年)1月場所は関脇の地位を維持、10勝以上を挙げれば大関に特例で復帰できたものの、怪我の回復が遅れたことで全休となった。公傷適用は怪我をした場所の次の場所に限定されているため、この場所の全休は全敗として換算され、同年3月場所は東前頭8枚目まで下がった。この場所では元大関の実力を見せて9勝6敗と5場所ぶりの勝ち越しを決めたがその後は平幕中位に留まり、三役へ昇進しても負け越して即陥落するなど、かつての勢いは失われていた。さらに、2003年(平成15年)1月場所の横綱・貴乃花光司戦でのいわゆる「疑惑の判定」に巻き込まれ、その取組で右足を負傷するなど、不運を被った(後述)。

2004年(平成16年)7月場所では前年までの不調を晴らすかのように平幕で初日から9連勝し12勝3敗の優勝次点となり、同年9月場所で関脇に復帰すると9勝6敗となり、大関昇進を決めた2000年(平成12年)3月場所以来4年ぶりの三役における勝ち越しを記録した。その後も三役に定着し、周囲からは大関復帰を期待する声が聞かれるようになった。大関再挑戦となるこの時まで時間を要したのは、途中で2004年9月場所後に父が死去するなど心労に見舞われたことで、持ち直すのに時間がかかったという2005年春場所は3大関に勝ったが5勝10敗だった。前頭4枚目で迎えた2005年(平成17年)11月場所は当時の3大関(魁皇博之、千代大海龍二、栃東大裕)全員に黒星を付けて10勝を挙げ、大関陥落後では初となる三賞(敢闘賞)を受賞した(元大関として貴ノ浪以来3年ぶり史上5人目の三賞受賞)。2006年(平成18年)1月場所においても前述の3大関(この場所では新大関に琴欧洲勝紀がいたが敗れた)を破って勝ち越すなど、元大関としての意地を見せた。同年3月場所においても3大関(琴欧洲、千代大海、栃東)を破って10勝を挙げ、同年5月場所では新大関・白鵬翔を含む4大関全員を倒し、千秋楽まで白鵬と優勝争いを演じた。優勝決定戦では突っ張りが白鵬の汗によって滑ったことで敗れ、初の幕内最高優勝こそ逃したものの前場所を上回る14勝1敗の好成績を挙げ、同年7月場所に大関復帰を賭けることとなった。

昇進基準と番付

大関復帰を賭けた2006年(平成18年)7月場所は序盤こそ緊張感から苦戦したが、終盤の5連勝によって10勝5敗で終えた。二桁勝利で終えたことにより、大関昇進時と同様に「三役の地位で直近3場所の合計33勝以上」となり、昇進を諮る審判部の判断が注目されたが、不運にも再昇進は見送られた。その理由として、直前場所の成績が10勝5敗での昇進は1960年代以来ほとんど例が無かったことや、10日目を終えた段階で5勝5敗と優勝争いに全く加われなかったこと、仮に雅山が再昇進した場合に前例の無い「1場所6大関」という極めてバランスの悪い番付構成になることも不利に働いてしまった。さらに、綱取りが懸かっていた白鵬が、雅山の大関再昇進と同時(ところてん式)に昇進していれば5大関に収まったが、白鵬の横綱昇進まで見送られる結果となった。

雅山にとって三度再挑戦となった同年9月場所では、9日目までに5敗を喫して9勝止まりとなり、大関復帰は果たせなかった。しかし取組の内容としては、9日目の対白鵬翔戦で善戦(本人曰く「今場所最高の相撲」)し、終盤にかけて気持ちを切らさなかったことを高く評価され、北の湖理事長も「大勝ちすれば(大関復帰の)話題性の出てくる可能性はある。よくここまで持ってきた」とコメントするなど、大関復帰の可能性はまだ残っていると見られた。しかし同年11月場所は千秋楽にようやく勝ち越しを決めることとなり、2007年(平成19年)1月場所は5勝10敗と大敗し、5場所連続で務めた関脇から陥落すると同時に大関復帰の可能性も完全に消えた。


 

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