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金井清



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Wikipedia

金井清(かないきよし、1907年(明治40年)7月25日 - 2008年(平成20年)4月13日)は、地震工学者。分散性表面波、常時微動の測定法開発、構造物や地盤の振動理論などの研究で知られる。

経歴

妹沢との出会い

1907年(明治40年)、広島市で生まれる。広島県立広島第一中学校を経て1928年(昭和3年)に広島高等工業学校電気工学科を卒業した。卒業後は同校久保研究室で実験助手を勤めていたが、1931年(昭和6年)に上京し東京帝国大学地震研究所の妹沢克惟の元を訪れ、1934年(昭和9年)に正式に助手となった。妹沢との共同研究は10年余に及んだが、この期間に地震研究所彙報により発表された論文は年に10-20編に達する。論文の主な内容は地表層の弾性波挙動に関する理論、構造物や地盤の振動理論等であった。1935年(昭和10年)には分散性表面波を種々検討する中で、層構造のレイリー波に二つのモードがあることを妹沢とともに発表した(妹沢波)。

戦時下の研究

1939年(昭和14年)-1941年(昭和16年)、東京帝国大学航空研究所の技手を兼任した。この頃から、論文発表のペースが極度に低下するが、1941年に「筋違いの耐震効果の理論」と題する研究で工学博士(東京帝国大学)の学位を取得した。同年には地震研究所の技師となっている。終戦前後は田中貞二、鈴木富三郎、長田甲斐男、吉沢静江、森下利三等々と共同で研究にあたっている。1942年(昭和17年)には「地震研究所談話会」(第19回)で田中貞二とともに「退避壕内における爆風圧分布の測定」に関する研究を発表した。1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震と1945年(昭和20年)1月13日の三河地震の調査を行っていたが、金井の留守中に調査記録は焼却処分されてしまった。1945年8月に広島へ原爆が投下されると、被害調査による爆心地推定作業のため広島へ赴いた。金井は熱線による影の方向を基礎データとして、その方向を地図上に落とし交差する地点を爆心地と推定し、570メートル(±20メートル)上空の地点で炸裂したと発表した。また、長崎への原爆投下による爆心地推定作業にも参加している。

金井式の提唱

1947年(昭和22年)から多年にわたり、日立鉱山の地下において硬岩からなる岩盤上に設置した地震計により、地震観測を行った。観測された地震はM4.0-5.1、震央距離40-200km程度という限られた範囲のものであったが、それらの解析結果を元に1958年(昭和33年)にマグニチュードと震央距離から地震動の最大加速度振幅を算出する経験式および、地震動の最大速度振幅は周期によらず一定であるとした経験式を発表した。その後、松代群発地震などの近地地震の記録に基づいて原式を補正した。後にこれらの式は「金井式」と呼称され、構造物の敷地基盤における地震動の強さの計算式として全国の原発の耐震基準に用いられることとなった。

常時微動の研究

1954年(昭和29年)-1968年(昭和43年)には、簡便な調査で行える常時微動の有用性を示した。地表記録との対比により、工学上重要となる主要動がS波であることを指摘し、表層地盤がもつ増幅特性がS波の重複反射で説明できることを発表した。また、常時微動の測定結果による観測資料を分析する中で第I種(硬岩)−第IV種(沖積軟弱地盤、人工地盤)に至る地盤種別識別法を案出した。これは世界各国で利用されることとなった。1961年東京大学助教授、1963年同教授と昇進した。この頃にはカリフォルニア大学、カリフォルニア工科大学の招聘教授、メキシコ大学、チリ大学の特別講義を行っている。1965年(昭和40年)地震研究所地震計センター長、1967年同所長事務代理となり1968年(昭和43年)に東京大学を定年退官した。

晩年

定年退官後は日本大学で研究を行う傍ら、同大学の学部長、理事、副総長を歴任した。また、1968年-1972年(昭和47年)に宇都宮大学農学部非常勤講師、1982年(昭和57年)-1987年(昭和62年)に広島工業大学特任教授、1985年(昭和60年)-1987年(昭和62年)に日本大学生産工学部非常勤講師を勤めている。政府や省庁により多数の委員に選任された。2008年(平成20年)4月13日に100歳で死去した。

主な選任委員


 

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