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モーリス・ルブラン



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Wikipedia

モーリス・マリー・エミール・ルブラン(フランス語: Maurice Marie ?mile Leblanc, 1864年12月11日 - 1941年11月6日)は、フランスの小説家。フローベールやモーパッサンらに影響され小説家を志望する。他に影響を受けた作家には、オノレ・ド・バルザック、ジェイムズ・フェニモア・クーパー、アルフレッド・アソラン、エミール・ガボリオ、そしてエドガー・アラン・ポーを挙げている。

怪盗紳士「アルセーヌ・ルパン」の生みの親として知られる。ルブランの「ルパン」は、しばしばイギリスの作家アーサー・コナン・ドイルの生んだ「シャーロック・ホームズ」と対比される。

生涯・人物

生い立ち

フランス・ノルマンディーの地方都市ルーアン市内フォントネル通り2番地で第二子(長子は年子で長女のジョアンヌ)に次いで生まれる。父エミール・ルブランは海運と石炭卸売とを主業とするブルジョア階級の実業家であった。分娩に立ち会ったのは、ルブラン家のかかりつけの医師で、フローベールの兄、アシル・フローベールであった(後にパリの文壇でモーリス・ルブランがこの事実を自慢することになる)。

1870年12月、普仏戦争のためスコットランドに疎開するものの翌1871年の7月までに(当時まだプロシアの占領下にあった)ルーアンへと呼び戻されている。1873年10月よりジャンヌ・ダルク大通りのガストン・パトリ寄宿学校で初等教育を受けた後、同校に通学生として籍を置いたまま1875年から地元の「グラン・リセ」ことコルネイユ高等学校に入学。しばしば表彰を受けるほどの優等生でありながらリセの厳格な空気を嫌っていたことを後に自叙伝小説「L'Enthousiasme(1901年)」の中で回顧している。

1879年の夏には当時チェーン式が発明されたばかりの自転車を入手し、壮年期以降もサイクリングに傾倒するようになる。この当時のルブランは「神経質なほど感受性が強く、会話の際には時折チックの症状を示していた」と、実妹ジョルジェット・ルブランの「回想録(1931年)」中では記述されている。

1881年7月27〜28日に文系バカロレアの第一部試験を受け「可」の成績で合格、最終学年である「哲学級」に進学する。最終学年では特に人間心理の分析を嗜好し、この時の勉学が後々の作品群に多大な影響を及ぼすこととなる。

1882年8月、文系バカロレアの第二部試験と数学・物理・自然科学の試験に「可」の成績で合格、グラン・リセを卒業する。その後、父エミールの要望により英語を学ぶためマンチェスターに一年間滞在。

兵役からの反動

1883年には自らフランスに戻り、11月5日にルーアン市庁舎で「条件付き兵役(1500フランを納入することで、本来5年の期間を一年に短縮できた)」に志願している。同年11月12日、ヴェルサイユ旧王立厩舎内の第11連隊(砲兵)に配属、翌1884年11月12日には予備役編入(条件付き兵役のため、正式な予備役編入は1888年11月8日付となる)までの待命予備期間(事実上の復員)となり、ルーアンに帰郷した。後年、このイギリス居住と兵役の期間について、ルブランは「L'Enthousiasme」で「『この二年間、私は不幸だった』と率直に言うことができるだろう」 と述懐している。

帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れた。劇場や居酒屋に足繁く通い、ビリヤードや葉巻の喫煙、飲酒や買春が毎日の生活の一部となった。旅行にも興味を示し、ラクロワ島を訪れたり、サイクリングで「フランス全土を踏破」 したりしたのもこの頃である。これらについてルブランは「決められた仕事に無理矢理就かせられたり、何らかの制限を設けられたりするという考えが、私には突然、耐えられなくなった」と「L'Enthousiasme」にて回想している。一方で、後の代表作「奇巌城」はこの頃訪れたエトルタの情景が源流となっている。

だが、1885年1月27日、敬愛する母ブランシュが41歳の若さで逝去し、その遺産相続にともなう親権解除のため、彼は就職せねばならなくなった。父の伝手により将来的に共同経営者となるべくルイ・ミルド=ビシャールが所有する機械式梳毛(そもう)工場に勤務することになったものの、これはルブランにはまったく関心をもたらさない仕事であり、そこから逃避する手段として、ルブランは小説の執筆を始めた。

パリへ、そして職業作家へ

当時、ルブランはある恋愛ごとで後ろ指をさされ、ルーアンに居づらくなっていた。一方で、しばしば訪れていたパリでは一歳年下の寡婦マリー・ラランヌと知り合い、恋愛関係を結ぶに至っていた。田舎に耐えられなくなり、文学的成功も夢見ていたルブランは、ロー・スクールへの通学を口実として1888年の末にパリのモンマルトルのカレ6番地へと居を移す。生活資金は1891年に全額支払われる予定であった母親の遺産がら捻出され、1888年12月29日には父より2万フラン、1889年から1890年の間には約7万フランを受け取っている。

1889年1月10日、マリー・ラランヌと結婚。ただし当時の風潮から結婚式は行わなかった。またこの頃、「文芸酒場」として名を成し始めていたキャバレー「黒猫(シャ・ノワール)」に足繁く足を運び、ルネ・モロやモーリス・ドネー等多くの文人・芸術家たちと交友した。結婚後、しばらくルブランはノルマンディを中心とした生活を送った。


 

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