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グレタ・ガルボ



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Wikipedia

グレタ・ガルボGreta Garbo、1905年9月18日 - 1990年4月15日)は、スウェーデン生まれのハリウッド映画女優。本名はグレータ・ルヴィーサ・グスタフソン(Greta Lovisa Gustafsson)で、ハリウッドのサイレント映画期ならびにトーキー映画初期の伝説的スターである。3度のアカデミー主演女優賞へのノミネート経験があり、1954年に「輝かしく忘れがたい演技」に対してアカデミー名誉賞が贈られている。また、1935年の『アンナ・カレニナ』と1936年の『椿姫』で、ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞を受賞している。アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選定した映画スターベスト100の女優部門では、キャサリン・ヘプバーン、ベティ・デイヴィス、オードリー・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンに続く第5位にランクされた。

ガルボは1924年のスウェーデン映画 『イエスタ・ベルリングの伝説』(en:The Saga of Gosta Berling) の準主役で、女優としての活動を始めた。この作品でのガルボの演技が、アメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) の副社長ルイス・B・メイヤーに認められ、1925年にガルボはハリウッドへ招かれた。翌1926年にハリウッドでの1作目となるサイレント映画『イバニエスの激流』で注目を集め、3作目の『肉体と悪魔』(1926年)で国際的な映画女優としての地位を築いた。

1930年の映画『アンナ・クリスティ』が、ガルボが出演した初のトーキー映画で、制作元のMGMはこの作品の宣伝に「ガルボが話す! (Garbo talks!)」というキャッチフレーズを使用した。同じ年の1930年には『ロマンス』も公開されている。ガルボはこの両作品でアカデミー主演女優賞にノミネートされた。当時のアカデミー賞俳優部門の規定では、同一年度に複数の映画に出演していたとしてもノミネートされる賞は一つだけだった。大衆からのガルボの人気は高く、1932年にはガルボが映画会社との契約内容を主導したり、出演作品を自ら選ぶことが増えていった。ガルボの代表作として1936年の『椿姫』で演じた高級娼婦マルグリット・ゴーティエを挙げる専門家や評論家が多い。このマルグリット役でガルボは2度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。その後、1939年のコメディ映画『ニノチカ』で3度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされ、1941年の『奥様は顔が二つ』を最後に映画界から引退した。

引退した1941年にガルボはまだ35歳だった。その後もガルボのもとには多くの映画出演依頼が舞い込んできたが、ガルボが映画界に復帰することはなかった。引退後は公の場所に姿を見せることなく、隠棲生活のうちに死去した。

幼少期

ガルボはストックホルムのセーデルマルム (en:S?dermalm) に生まれ、グレタ・ロヴィーサ・グスタフソンと名づけられた。父親のカール・アルフレート・グスタフソン(1871年 - 1920年)は肉体労働者で、母親のアンナ・ロヴィーサ(1872年 - 1944年)は主婦だったが後にジャム工場で働くようになった。ガルボは三人兄妹の末子で、兄はスヴェン・アルフレート(1898年 - 1967年)、姉はアルヴァ・マリア(1903年 - 1926年)である。

カール・アルフレートは、アンネビー (en:Aneby Municipality) からストックホルムを訪れていたときにアンナと出会った。カール・アルフレートは独り立ちするために故郷からストックホルムへと移住し、道路清掃、食料雑貨店、工場、肉屋の店員など、さまざまな職で生計を立てていた。アンナはヘーグビー (en:H?gsby) の出身で、カール・アルフレートと結婚したのはストックホルムに出てきて間もなくのことだった。二人の暮らしは貧しく、下町の給湯設備のない3室のアパートに住んでいた。当時ストックホルムで一番貧しい人々が住んでいたこのスラム街で、ガルボら三兄妹は育てられた。

幼いガルボは内気で夢見がちで、学校が嫌いな一人遊びを好む少女だった。しかしながら、ガルボは豊かな想像力と天性の指導力を持った少女でもあり、幼少のころから演劇に興味を持つようになっていった。ごっこ遊びに友達を巻き込み、女優になるという夢を膨らませていった。のちにガルボは友達とともにアマチュア劇団へ参加することを望み、劇場へ何度も足を運ぶようになった。ガルボは13歳で初等学校を卒業したが、当時のスウェーデンの労働者階級の子供と同様に上の学校へは進学していない。のちにガルボは初等教育しか受けていないことが劣等感となっていたと振り返っている。

1919年の冬にスペイン風邪がストックホルムで流行した。父カール・アルフレートもスペイン風邪に罹患し、職を失ってしまう。ガルボは自宅で父親を看病し、病院での治療に毎週のように付き添っていたが、ガルボが14歳の1920年にカール・アルフレートは死去した。

女優として

キャリア初期(1920年 - 1924年)

学校を卒業したガルボは理髪店で髭剃り係として働いていたが、友人の薦めでストックホルムにあるPUBデパートの使い走りの職に応募し、婦人帽子売り場に配属された。やがてガルボはデパートのカタログに掲載する帽子のモデルを勤めるようになり、このことがより収入の高いファッションモデルへの道を開くことになっていく。1920年の終わりごろから、デパートの宣伝担当が、ガルボを女性服のモデルとして宣伝広告用の短編フィルムに出演させるようになった。ガルボが初めて出演した宣伝短編フィルムが公開されたのは1920年12月12日で、翌年も別の宣伝担当がガルボをモデルとした宣伝短編フィルムを撮影している。この宣伝短編フィルムがガルボの女優としての最初のキャリアとなった。そしてガルボは映画監督エーリック・ペチュレルに認められ、1922年にペチュレルの短編コメディ『放浪者ペッテル』に出演した。


 

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