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内田裕也

内田裕也



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Wikipedia

内田 裕也(うちだ ゆうや、1939年〈昭和14年〉11月17日 - 2019年〈平成31年〉3月17日)は、日本のミュージシャン、俳優、政治活動家。本名:内田 雄也(読み同じ)。身長174cm。血液型はB型。

兵庫県西宮市に生まれ、1959年に日劇ウエスタンカーニバルで本格的にデビュー。以降、内田裕也とザ・フラワーズのヴォーカリスト、フラワー・トラベリン・バンドのプロデュース活動などを経て、1970年代後半からは俳優としても活動し映画出演や映画監督なども手掛ける。また、映画『コミック雑誌なんかいらない!』や『エロティックな関係』などでは脚本も担当した。映画の代表作には他に『水のないプール』『十階のモスキート』『魚からダイオキシン!!』などがある。若松孝二監督の作品に出演した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll)。

妻は俳優の樹木希林。娘は内田也哉子。内田也哉子と結婚した本木雅弘は娘婿に当たる。

経歴・人物

父・鐵蔵(1969年12月28日 81歳没)、母・壽子(1985年1月29日 88歳没)の間に兵庫県西宮市に生まれ、大阪府堺市で育つ。堺市立大美野小学校〜堺市立三国丘中学校入学(1952年)。中学二年の時、清教学園中学校に転入(一期生)、翌1953年、大阪市立旭陽中学校へ転入。1955年、大阪府立旭高等学校へ入学。少年時代は発明に凝るなど、真面目で勉強熱心なタイプで、清教学園中学時には生徒会副会長を務める。中学ではラグビー部、高校では野球部に所属。しかし、エルヴィス・プレスリーに憧れたことで学校に行かなくなり、旭高等学校を退学して1956年、大阪府立三国丘高等学校に転校する。1957年、高校卒業後、日本大学法学部の夜学を中退。

プロ野球は阪神タイガースファンである。

バンドボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男)とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成する。

1958年、自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。メンバーには美川鯛二(現・中村泰士)、北原謙二などがいた。

1959年、大手芸能事務所である渡辺プロダクションに所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバルへ初出場する。

1960年、かまやつひろしなどとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであったため脱退し、山下敬二郎とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。

1962年、寺内タケシとブルージーンズにヴォーカリストとして参加する。

1963年、恩地日出夫監督の『素晴らしい悪女』に映画初出演。その後も、1965年公開の『エレキの若大将』に勝ち抜きエレキ合戦の司会者役で出演し、「レディース&ジェントルメン、マイ・ネーム・イズ・ショーン・コネリー...なんてなことを言っちゃったりして」、「シャークス...シャーク(癪)な名前ですね」などのジョークを交えた軽妙なセリフと演技が見られる。

1960年代中頃から、ベンチャーズやビートルズの影響により、ロック色を強めた活動に転換していく。1966年6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオとのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで前座として出演(「ウェルカム・ビートルズ」など数曲を演奏)する。同年には大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動していたファニーズ、のちのザ・タイガースをスカウトする。東京へ活動の場を移しジャズ喫茶・新宿ACBなどからステージ・再デビューや内田のバック・バンドを足がかりに活動を広げる計画を持ちかける。しかし諸事情で頓挫とんざし、また、所属する渡辺プロダクションと自身の活動で軋轢あつれきが生ずる。内田は広い人脈を築き、裏方的な役割を志向するが、プロダクション配下で行う芸能活動と両立できず、また、会社側に提案したロック音楽プロデュースという役割も当時は理解されず退社の余儀ない状況に追い込まれる。

1967年、春頃から3か月ほどヨーロッパに渡る。オーストリア、ドイツ、イタリア、スペイン、イギリス、フランスを放浪し、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、ジャニス・ジョプリンなどの新しいロックを体験する。その経験を活かし、同年11月に麻生レミをヴォーカルとして内田裕也とザ・フラワーズを結成し、ジャニス・ジョプリンやジェファーソン・エアプレインなどのカバーを中心に、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開する(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧の「オペラ横尾忠則を唄う」〈正式な発売は1970年3月〉がある)。

1969年、1月にフラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売されるが、志とは裏腹にセールスには繋がらなかった。

1970年、前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中(ヴォーカル、元・4.9.1〈フォー・ナイン・エース〉)、石間秀樹(リードギター、元・ビーバーズ)によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であったが、同時期にメンバーの麻生レミと小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退する。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンドとして再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。同年10月にデビュー・アルバム「Anywhere」を発表する。日本万国博覧会(通称・大阪万博)で出会ったバンド、ライトハウスのプロデュースを手掛けていたヴィンセント・フスコーが興味を持ったことやオリジナル曲によるアルバム製作も可能となったため、12月には自身とメンバーがカナダへと渡った。

1971年、4月に当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバムとなる『SATORI』を発売。その後、1972年2月にライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』、1973年2月にはカナダより凱旋帰国後に行われた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』を発売するが、1973年4月の京都円山公園でのコンサートを最後にフラワー・トラベリン・バンドは活動を休止する。


 

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