セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Сергей Сергеевич Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月23日 - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。
人物・来歴
現在のウクライナ、ドネツィク州(当時はロシア帝国領)ソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka)生まれのロシア人。帝政期のロシアに生を受け、13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。革命後、シベリア・日本を経由してアメリカへ5回渡り、さらにパリに居を移す。20年近い海外生活の後、1936年に社会主義のソヴィエトへ帰国。作風は、こうした外的な環境に応じて大きく3つの時期に区分できる。
ソヴィエト時代には、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、カバレフスキーらと共に、社会主義国ソヴィエトを代表する作曲家とみなされたが、ジダーノフ批判を受けるなど、必ずしも総て順風であった訳ではない。
交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、オペラ、映画音楽などあらゆるジャンルにわたる多くの作品が残されており、演奏頻度が高い傑作も多い。特に、自身が優れたピアニストであったことから多くのピアノ作品があり、ピアニストの重要なレパートリーの一つとなっている。
生涯
誕生と幼年期(1891年 - 1904年)
- 1891年4月23日、農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた父セルゲイ・アレクセエヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)と母マリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)の息子として、ウクライナ地方南部のエカテリノスラフ県バフムート郡ソンツォフカ村に生まれた。プロコフィエフ家には、はじめ2人の娘が生まれたが、2人とも幼くして世を去ったので、3番目の子供セルゲイは特別注意を払って育てられた。
- 1896年(5歳)最初の作曲。母親が譜面に起こしたヘ長調のピアノの小曲で『インドのギャロップ』と名づけられた。
- 1898年(7歳)4手ピアノのためのハ長調の行進曲を作曲。
- 1900年(9歳)両親に連れられ、モスクワでオペラ『ファウスト』、『イーゴリ公』、バレエ『眠りの森の美女』を見る。最初のオペラ『巨人』を作曲。
- 1901年(10歳)第2のオペラ『無人島で』の作曲を始めるが、序曲と第1幕までしかできなかった。
- 1902年(11歳)父の友人の甥ポメランツェフの尽力で、母と共にタネーエフを訪問。タネーエフの勧めでポメランツェフのレッスンを受けるが退屈きわまりないものであった。ソンツォフカに帰るとタネーエフの紹介でグリエールに師事。夏の終わる頃、ト長調の4楽章の交響曲を作曲。冬に2度目のタネーエフ訪問をし、グリエールと2人で交響曲を連弾するが、和声が単純すぎると評され、いっそう和声の勉強に集中するようになった。
- 1903年(12歳)グリエールの指導のもとプーシキンによる本格的なオペラ『ペスト流行期の酒宴』を作曲。3度目のタネーエフ訪問。
音楽院時代(1904年 - 1914年)
- 1904年(13歳)母に連れられペテルブルクのアレクサンドル・グラズノフを訪問。女流詩人マリーヤ・キルシュテットの勧めにより、フーケの詩によるオペラ『ウンディーネ(水の精)』の作曲を開始、第1幕を書く。サンクトペテルブルク音楽院に入学。リャードフの和声学クラスで学び、ボリス・アサフィエフと親交を結ぶ。
- 1905年(14歳)音楽院当局への抗議文に署名。特別ピアノ・クラスに移りヴィンクレル(1865年 - 1935年)にピアノを学ぶ。オペラ『ウンディーネ』の第2幕を書く。
- 1906年(15歳)リャードフの対位法クラスとリムスキー=コルサコフの管弦楽法クラスで学ぶ。ニコライ・ミャスコフスキーと親交。ミャスコフスキーとヴァイオリンソナタを共作し、プロコフィエフは第1楽章を書いた。