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セルゲイ・プロコフィエフ



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Wikipedia

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(ロシア語: Сергей Сергеевич Прокофьев シェルギェーイ・シェルギェーイェヴィチュ・プラコーフィイェフ;ラテン文字転写の例:Sergei Sergeevich Prokofiev、1891年4月27日 - 1953年3月5日)は、ロシアの作曲家、ピアニスト、指揮者。数多くの形式の音楽に傑作を残したことで知られており、20世紀の大作曲家のひとりであると認知されている。作品には『三つのオレンジへの恋』の行進曲、組曲『キージェ中尉』、バレエ音楽『ロメオとジュリエット』、『ピーターと狼』といったような広く聴かれる楽曲がある。確立された型や様式の中で取り組み生み出された作品には、習作を除くと7つのオペラ、7つの交響曲、8つのバレエ音楽、5つのピアノ協奏曲、2つのヴァイオリン協奏曲、1つのチェロ協奏曲とチェロと管弦楽のための交響的協奏曲、そして9つのピアノソナタがある。

帝政期のロシアに生を受け、13歳でサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ。音楽院を卒業したプロコフィエフは、当初因習を打ち破る作曲家兼ピアニストとして名を上げた。最初の2曲のピアノ協奏曲のように、不協和音と超絶技巧に獰猛さを見せる作品群を自分の楽器であるピアノのために書いて悪名を高めたのである。1915年、管弦楽のための『スキタイ組曲』により一般的な作曲家兼ピアニストの枠組みから明確に抜け出す。これは元々バレエ・リュスのセルゲイ・ディアギレフの委嘱により作曲されたバレエ音楽から編みなおされた作品だった。ディアギレフはさらに3作のバレエ音楽、『道化師』、『鋼鉄の歩み』、『放蕩息子』をプロコフィエフに委嘱しており、その全てが初演時に評論家と同業者にセンセーションを巻き起こした。しかしプロコフィエフが最も関心を注いだのはオペラであり、『賭博者』や『炎の天使』など数作品を作曲した。『三つのオレンジへの恋』はシカゴ・オペラ協会のために書かれた後に10年以上にわたりヨーロッパとロシアで上演され、彼の生前のオペラでの成功作のひとつとなった。

1917年のロシア革命以後は、ソビエトの大臣であったアナトリー・ルナチャルスキーの公認を得てロシアを後にし、アメリカ合衆国、ドイツ、パリと居住地を移しながら作曲家、ピアニスト、指揮者として生計を立てた。この頃にスペイン出身の歌手であったカロリナ・コディナと結婚、2人の息子を儲けた。1930年代のはじめには世界恐慌によりアメリカや西ヨーロッパでプロコフィエフのバレエやオペラの上演機会が減少する。自らを第一に作曲家であると看做していた彼はピアニストとして演奏旅行をしなければならないこの時に憤慨し、新作の委嘱のためにソビエト連邦へ向かうことが多くなっていく。そして1936年にはついに家族を連れて祖国へ戻ることになった。祖国では、特に『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』、そしてとりわけ『アレクサンドル・ネフスキー』がいくらかの成功を収めた。

ナチスによるソ連侵攻に鼓舞されたプロコフィエフは、最大の野心作としてレフ・トルストイの『戦争と平和』のオペラ化を行う。1948年に「非民主的形式主義」との批判を受けた。にもかかわらず、ロシアの新しい世代の演奏家であるスヴャトスラフ・リヒテル、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチらから個人的に、また芸術家としての支援を受け、リヒテルにはピアノソナタ第9番、ロストロポーヴィチには交響的協奏曲を書いている。

生涯

幼少期と最初の作曲

1891年にロシア帝国、エカテリノスラフ県バフムート郡のソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka、現在のウクライナ、ドネツィク州、ソンツィフカ)に生を受けた。父のセルゲイ・アレクセイヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)は農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた。母のマリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)はかつてシェレメテフ家に支配されていた農奴の家系の出で、その領主の庇護により農奴の子らは若くから舞台と芸術について教えを受けていた。プロコフィエフに最初に作曲を教えたレインゴリト・グリエールが記すところでは、彼女は「美しく聡明な目をした長身の女性(中略)自身がいかにすれば温かく純真な雰囲気を作り出せるかを心得ていた。」1877年に結婚した後、一家はスモレンスク県にある小さな地所に移り住んだ。やがてセルゲイ・アレクセイヴィチは土壌技術者の職を得て、学生時代に一緒だったドミトリ・ソンツォフに雇われることになる。一家が引っ越したのはウクライナのステップの中にある彼の地所だったのである。

既に2人の娘を失っていたマリヤは、プロコフィエフが生まれるまで音楽に人生を捧げていた。まだ息子が幼い頃にはピアノのレッスンを受けるためにモスクワもしくはサンクトペテルブルクで2か月を過ごしていた。主としてショパンやベートーヴェンの作品を夕方に練習していた母のピアノの音色に触発されたセルゲイは、5歳で初めてのピアノ曲を作曲している。『インドのギャロップ』というこの作品は母が譜面に起こしたもので、幼いプロコフィエフが「黒鍵に取り組む気が起きなかった」という理由でヘ長リディア旋法で書かれている。7歳までにはチェスの指し方も覚えた。チェスへの情熱は燃え続け、チェスの世界王者であるホセ・ラウル・カパブランカと知り合いになり、1914年に行われた多面指しの模擬戦では勝利を収めている。ミハイル・ボトヴィニクとも面識があり、1930年代に幾度か対戦が行われた。9歳になると最初のオペラ『巨人』や、序曲、他の様々な小品を作曲していた。

正式な教育と議論を呼んだ初期作品

1902年、母がモスクワ音楽院の学長を務めていたセルゲイ・タネーエフに出会い、当初アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの下でプロコフィエフへのピアノと作曲の指導を開始すべきであると助言を受けた。これは実現せず、タネーエフは代わりに1902年の夏に作曲家でピアニストのレインゴリト・グリエールをソンツォフカに向かわせてプロコフィエフを指導する手はずを整えた。最初の講義が最終段階に至り、11歳の本人の強い希望により新米作曲家プロコフィエフは初めて交響曲の作曲に取り組んだ。翌年の夏にもグリエールはソンツォフカを訪ねて更なる指導を行っている。数十年が経過してグリエールとのレッスンについて記した際、プロコフィエフは師の思いやりのある教授法に当然の称賛を送りつつも、授けられたものが後になって頭から消し去らねばならなかった「四角四面の」フレーズ構造と因習的な転調だったことには不平を漏らしていた。それでもなお、必要であった理論という道具を備えたプロコフィエフは、不協和な和声や一般的でない拍子の実験を開始している。それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲を用い、これが彼独自の音楽形式の基礎を形成していった。

息子の才能が開花していく一方で、プロコフィエフの両親はこれほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワの優良な高校へ通わせる可能性について考えていた。1904年までに母はモスクワではなくサンクトペテルブルクにすることを心に決めており、プロコフィエフと2人でこの当時の首都を訪ねて教育のために移り住めるのかを探った。2人はサンクトペテルブルク音楽院の教授だったアレクサンドル・グラズノフに紹介され、プロコフィエフに会ってその音楽を見てみたいと請われる。プロコフィエフはこの時さらに2つのオペラ『無人島で』と『ペスト流行期の酒宴』を完成させており、4作目の『水の精』に取り組んでいた。グラズノフはいたく感銘を受け、プロコフィエフの母へ息子に音楽院の入学試験を受けさせるよう強く勧めた。プロコフィエフは試験に合格、この年に入学を果たす。

クラスメイトの大半に比べて数年も年少のプロコフィエフは風変りで傲慢な人物と見られており、多数の同級生の間違いを記録につけて彼らを苛立たせた。この時期にはピアノをアレクサンドル・ウィンクラーに、和声と対位法をアナトーリ・リャードフに、指揮法をニコライ・チェレプニンに、管弦楽法をニコライ・リムスキー=コルサコフに学ぶなどした。授業では作曲家のボリス・アサフィエフやニコライ・ミャスコフスキーと一緒になっており、後者とは比較的親密となり生涯にわたる親交を育んだ。

サンクトペテルブルクの楽壇の一員として、自らピアノを演奏して披露した自作曲により称賛を受ける傍ら、音楽の反逆者として名声を高めた。1909年には特筆すべきことのない成績で作曲のクラスを卒業している。音楽院には籍を置いたままとし、アンナ・エシポワにピアノの指導を受け、チェレプニンの指揮のレッスンで研鑽を続けた。

1910年に父が他界して財政的支援が滞った。幸運にも音楽院の外部で作曲家、ピアニストとして名を馳せ始めており、サンクトペテルブルクの『現代音楽の夕べ』にも顔を出していた。その場においては冒険的な自作のピアノ作品を複数披露しており、そうした中に非常に半音階的で不協和な練習曲集 作品2(1909年)があった。この作品の演奏が『夕べ』の主催者らに強い感銘を与え、プロコフィエフは彼らの誘いでアルノルト・シェーンベルクの3つのピアノ小品 作品11のロシア初演を手掛けることになった。和声の実験はピアノのための『サルカズム(風刺)』 作品17(1912年)でも続いており、ここでは多調の使用が推し進められている。最初の2作のピアノ協奏曲が書かれたのはこの頃で、そのうちピアノ協奏曲第2番は1913年8月23日、パヴロフスクでの初演の際にスキャンダルを巻き起こした。ある人物は次のように絶叫して会場を後にしたと記述している。「こんな未来派の音楽なんかくそくらえだ!屋根の上の猫ですらましな音楽を奏でるぞ!」一方でモダニストらは魅入られていた。


 

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