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山田風太郎

山田風太郎



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Wikipedia

山田 風太郎(やまだ ふうたろう、1922年1月4日 - 2001年7月28日)は、日本の小説家。本名:山田 誠也(やまだ せいや)。伝奇小説、推理小説、時代小説の3分野で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。東京医科大学卒業、医学士号取得。

『魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される、奇想天外なアイデアを用いた大衆小説で知られている。『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた作品を多数執筆した。

2010年(平成22年)、その名を冠した「山田風太郎賞」が創設された。

筆名

筆名は、中学生時代に3人の友人らと互いに呼び合うのに用いた雷 / 雨 / 雲 / 風という符丁、そして受験雑誌への投稿時代にペンネームとして使用した「風」に由来する。当初は「かぜたろう」と読ませたかったようである(国立国会図書館のデータベースにその名残が見られる)が、最終的に「ふうたろう」で定着した。なお、戦前・戦後の映画・芸能雑誌をコレクションしていた色川武大が、その雑誌の中から、たまたま学生時代の「風太郎」名義の投稿を発見し、その頁のコピーを山田に送ったこともある。

生前に戒名を「風々院風々風々居士」と自ら定め、八王子の上川霊園にある墓石には「風ノ墓」と刻まれている。

来歴

生い立ち

兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市)に生まれた。父母ともに代々医者の家系で、父は同地で「山田医院」を開業していた。妹(昭子)が誕生したものの、5歳の時には父・太郎が脳卒中で急死した。9歳で山陰の諸寄村に転居したが、11歳のときに、母親が亡父の弟であり、同じく医師となっていた叔父と再婚して山田医院を再開、故郷の関宮へ戻る。

兵庫県立豊岡中学校(旧制中学=5年制、現在の兵庫県立豊岡高等学校)に入学して寮生活を始めた翌年の1936年(昭和11年)、母・昭子が肺炎により死亡、山田医院を継いでいた叔父は別の女性と再婚した。その後は再婚後の叔父夫婦に養われることになったものの、互いに親子の情愛は得られなかったという。旧制中学時代の教師に奈良本辰也がいた。吉田靖彦 (国際政治学者)は中学の同級生で友人。

1940年(昭和15年)、豊岡中学を卒業したものの旧制高等学校の受験に失敗、更に2年間浪人するも志望校への合格はならず、1942年(昭和17年)8月、半ば家出状態で上京した。20歳となった同年には徴兵検査を受けたが、肋膜炎のために丙種合格とされ、入隊を免れた(当時、甲種と乙種合格の者のみが徴兵されていた)。東京では沖電気の軍需工場(品川)で働きながら受験勉強を続け、1944年(昭和19年)、22歳の時に旧制東京医学専門学校(後の東京医科大学)に合格して医学生となった。入学後は虚無的な青年として、読書を心の支えに戦時下の生活を送る。1945年(昭和20年)5月には空襲で焼け出され山形に避難、その後は学校ごと長野県の飯田に疎開するが、敗戦の前日には異常な精神状態となり、友人と徹夜で議論し、「日本を救うためには不撓不屈の意思の力であと三年戦うしかない、無際限の殺戮にも耐え抜いたときのみにこそ日本人の誇りは守られる」と、戦争継続をうったえた。翌日、8月15日の日記には「帝国ツイニ敵ニ屈ス。」とのみ記される。

山田は避難先の山形で、沖電気時代の恩人、高須氏の夫人の連れ子にあたる佐藤啓子(当時13歳)と出会っており、後の1953年(昭和28年)に結婚し子供を得て、終生を伴にすることになる。日本の敗戦についてはその後、「最大の敗因は科学であり、さらに科学的教育の不手際であった」と日記に著している。

後の著作への影響

山田風太郎作品にほぼ全て共通する、一歩引いた視点からの人間や歴史への視点は、幼少時の両親との死別、そして多感な青春時代に起こった大東亜戦争(太平洋戦争)により型作られた。特に徴兵検査で体格不適格で丙種合格となり、「列外の者」とされたことは、彼の内面に「社会から疎外された者」としての意識を形成することになったと自ら語っている。


 

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