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MANOWAR

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Wikipedia

マノウォー(Manowar)は、アメリカのヘヴィメタルウォリアーズである。

1980年、ブラック・サバスのツアーにパイロテクニクス及びベースの技師として同行していたジョーイ・ディマイオと、ツアーのオープニングアクトを務めていたShakin' Streetロス・ザ・ボスが意気投合して結成された。バンド名の由来は軍艦を意味する"Man of War"から。

真のヘヴィメタルを標榜する彼らは「偽メタルに死を」 (Death to False Metal)を合言葉に掲げ、1982年に『地獄の鎮魂歌』 - Battle Hymnsでデビュー。力強くドラマティックな楽曲にエリック・アダムスのシャウト、ジョーイ・ディマイオの"光速"ベースが特徴。右拳を握り締め、その手首を左手で掴んで頭上に掲げるポーズは「マノウォー・サイン」あるいは「サイン・オブ・ハンマー」と呼ばれており、彼ら自身やファンの間だけではなく、他のバンド、ミュージシャンもライヴなどでポーズをとる事がある。

母国米国では一般的には殆ど無名に近いが、日本、欧州では根強い人気があり、特にドイツでは熱狂的な支持を誇っている。2002年の『ウォーリアーズ・オブ・ザ・ワールド』、2007年の『ゴッズ・オブ・ウォー』は、いずれもドイツの一般アルバムチャート(GfK Entertainment charts)で最高位2位を記録した。

来歴

1980年代

1980年、ブラック・サバスのヘヴン&ヘルツアーにパイロテクニクス及びベースの技師として同行していたジョーイ・ディマイオと、元Dictatorsのギタリストで、ツアーのオープニングアクトを務めるShakin' Streetに参加していたロス・ザ・ボスが意気投合し、ツアー終了後にジョーイの幼馴染で一緒にバンド活動もしていたエリック・アダムスをボーカルに、ドラマーには後にThe Rods等で活躍するカール・ケネディを加えた4人で結成された。

結成後暫くは小さなライブハウスでカバー曲を披露しながら少しばかりの成功を収めていたが、数カ月後にはオリジナル曲の作成に着手し、1981年には2曲入りのデモテープDemo '81を完成させた。この頃カール・ケネディがバンドを脱退するが、程なくドニー・ヘムズィクを後任に迎え、メンバーはライブ活動を続けながらレコード会社への売り込みを続ける多忙な日々を過ごしていた。

同年、彼らが作成したデモテープがレコード会社の目に止まり、リバティ・レコードとレコーディング契約を締結。翌1982年にはデビュー・アルバムの『バトル・ヒムズ(旧邦題:地獄の鎮魂歌)』を発表した。アルバムに収録されたDark Avengerではハリウッドを代表する映画監督、脚本家、俳優であるオーソン・ウェルズが曲中のナレーションを務めた。

デビュー・アルバムのリリース後、テッド・ニュージェントのサポートアクトとして初のツアーに出るが、その関係も長くは続かなかった。そこで自らがヘッドライナーの小規模ツアーを実施し、アメリカ国内での支持を高めていくとともに、イギリスやドイツといったヨーロッパの国々でも一部のヘヴィメタルファンに注目される存在となった。このツアーを最後にドニー・ヘムズィクがバンドを去ることを決意したため、彼の後任として期待の若手であるスコット・コロンバスを迎えることとなる。

1983年にはアメリカ国内でメガフォース・レコードと、ヨーロッパではミュージック・フォー・ネイションズとそれぞれレコーディング契約を締結するが、その際に血判状の如く自らの血で契約書に署名をした。その様子はヘヴィメタル専門誌ケラング!第47号の巻頭で特集され、同時に「マノウォー・新時代の蛮族」 - MANOWAR the new barbarians の刺激的な副題とともに表紙を飾ることに成功した。

契約を済ませた彼らは早速スタジオに入り、2ndアルバム『イントゥ・グローリー・ライド(旧邦題:地獄の復讐)』を発表した。その後、アルバム未収録曲にオーソン・ウェルズのナレーションを吹き込み『ディフェンダー』として完成させ、同年EP盤として発表した。この頃にはヒロイック・ファンタジーや北欧神話をモチーフにした現在に至るバンドの作風やスタイルが確立し、エピックメタルやヴァイキング・メタルの勃興の一翼を担った。この叙事詩的なスタイルが特にイギリスに於いて大いに受け、バンドは大規模なイギリスツアーを計画するが、結果的にこれは頓挫することとなった。

ツアーの計画が頓挫した彼らは次のアルバムをイギリスのファンに捧げることを決意し、1984年初頭、レコーディングからミキシングまでを僅か6日という短期間で成し遂げ3rdアルバム『ヘイル・トゥ・イングランド』を完成させた。このアルバム発表後にイギリスで大々的なプロモーションツアーが組まれ、当初はマーシフル・フェイトのサポートアクトの扱いだったものが、ツアー中にマノウォーがヘッドライナーに改められるほど熱狂的に迎えられた。

この観客の反応に自信を深めたバンドは、ツアーを終えるとすぐさまレコーディング作業に戻った。新たに10レコードと契約し、前作から僅か10カ月後の同1984年、4thアルバム『サイン・オブ・ザ・ハンマー』を発表した。スローテンポで重厚なMountainsに続けてのスピード感溢れるタイトルトラックSign of the Hammerに代表されるように明確な緩急に溢れる構成とされ、この新作を携えての約2年に渡るワールドツアーは世界中で多くの観衆を集め、バンドに新たな成功をもたらした。

今後の活動方針について10レコードと意見の対立があり、1987年にバンドはアトランティック・レコードに移籍して新作『ファイティング・ザ・ワールド』を発表した。このアルバム以降はレインボーやキッスのジャケットを描いたこともあるケン・ケリーがアートワークを担当し、彼が描き出す剣と魔法の世界がバンドが持つ屈強な戦士のイメージをより広く浸透させることに一役買っている。

1988年、彼らの代表作として最もよく知られる『キングス・オブ・メタル』を発表。タイトルトラックのKings of Metal、そしてHail and Killはライヴの定番曲となり、彼らの作品の中で最も多く売れたアルバムとなった。このアルバムのジャケットにはバンドとバンドのメンバー、そして彼らのファンの全てを象徴する存在として、敢えて顔をはっきりとは描かれていない戦士が登場し、これ以降の彼らの作品の多くに描かれることとなる。バンドは足かけ約3年に渡る世界ツアーを開始、その間ヨーロッパの殆どの国で公演を行った。その最中、ロス・ザ・ボスがバンドを解雇され、彼の後任には約150人の候補者の中からデイヴィッド・シャンケルが選ばれた。ボスは後年、専門誌Guitaristのインタビューで「・・・ジョーイはマノウォーの躍進には別のギタリストが相応しいと感じたようだ」と答えている。またスコット・コロンバスもツアー中にバンドを離れることを決意し、自らの後任としてライノを指名した。この交代時にライノはスコットの使用していたドラムセットを譲り受け、自分が所有していたドラムセットを焼却した。


 

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