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夢野久作

夢野久作



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Wikipedia

夢野 久作(ゆめの きゅうさく 1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日)は、日本の小説家、禅僧、陸軍少尉、郵便局長。幼名は直樹(なほき)、出家名は杉山泰道(すぎやまやすみち)、禅僧としての名は雲水(うんすい)、雅号は萠圓、柳号は三八、戒名は悟真院吟園泰道居士。現在では、夢久夢Qなどと呼ばれることもある。夢野久作の筆名は、昔の福岡地方の方言で、夢想家、夢ばかり見る人、という意味を持つ。

三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』をはじめ、ホラー、怪奇色、幻想性の色濃い作風で名高い。初期には『九州日報』で童話や今でいう一コマ漫画もかいた。詩や短歌に長け、『白髪小僧』中の神話、『猟奇歌』のなどに代表される。

父は政界の黒幕と呼ばれた玄洋社系の国家主義者、杉山茂丸。長男はインド緑化の父と言われる杉山龍丸。三男は童話作家の杉山参緑。「夢野久作と杉山三代研究会」の杉山満丸は孫。

1936年(昭和11年)3月11日脳溢血で死亡、享年47。

生涯

1889年(明治22年)1月4日、杉山茂丸、ホトリ(旧姓: 高橋)夫妻の長男として福岡県福岡市小姓町に生まれる。父母が早くに離婚したため、祖父杉山三郎平に育てられ、弘道館記述義、四書五経を教え込まれる。1892年(明治25年)元黒田藩能楽師範、喜多流の梅津只圓の下、能楽修行に入門。

大名尋常小学校(現福岡市立大名小学校)、尋常高等小学校を卒業。福岡県立中学修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)に入学してからは、宗教、文学、音楽、美術に凝り、テニスに夢中になる。1908年(明治40年)修猷館卒業。茂丸が愛人のもとから家族のもとに戻ってくることを条件に、一年志願兵として近衛師団に入隊。除隊後、文学と絵画・美術への興味から1911年(明治44年)に当時無試験で入学可能だった慶應義塾大学予科文学科に入学し、歴史を専攻。翌1912年(明治45年)在学中に見習士官としての将校教育を受け、陸軍少尉を拝命する。

1913年(大正2年)、文弱を嫌う父茂丸の命により、慶應義塾大学を中退し、福岡に帰り数名で杉山農園を営むも失敗したが後の創作に影響を与えることになる。その後、1915年(大正4年)東京文京区本郷の喜福寺にて出家し「杉山泰道」と改名し奈良や京都で修行し、吉野山や大台ケ原山に入る。しかし、2年ほどで僧名泰道のまま還俗し、1917年に農園経営に戻る。同年ごろより、父杉山茂丸門下生が創刊した雑誌『黒白』などにエッセイなどを書くようになる。1918年(大正7年)、鎌田クラ(福岡市荒戸町)と鎌倉長谷の杉山家で結婚式(4月25日、入籍は4月18日)。父が社主を務めたこともある『九州日報』(現『西日本新聞』)の新聞記者を経て、同紙にルポルタージュや童話を掲載するようになる。1922年「きのこ会議」を『九州日報』に発表。同年、杉山萠圓の筆名で童話『白髪小僧』を誠文堂から刊行した。1926年(大正15年)、5月11日の日記に「終日精神生理学の原稿を書く」とあるように、『ドグラ・マグラ』の原型となるものの執筆が始まった、が構想などはより以前からあったと考えられる。同年3月16日には日本で初めて切絵を使った童話『ルルとミミ』を九州日報夕刊に発表する。さらに同年には『九州日報社』が経営困難となり、東京にて父杉山茂丸、頭山満、内田良平らと共に資金集めに奔走した。同年5年上浣「あやかしの鼓」を雑誌『新青年』の懸賞に発表して同率二等に入選し、文壇入りを果たす。「夢野久作」の筆名は、この作品を読んだ父茂丸が「夢の久作の書いたごたる小説じゃねー」と評したことから、それをそのまま筆名としたものである。「夢の久作」とは昔の福岡地方の方言で「夢想家、夢ばかり見る人」という意味を持つ。ここから本格的に『新青年』や『ぷろふいる』などの雑誌に投稿するようになり、以後童話は書かなくなる。同年中旬、九州日報を退社。

1929年(昭和4年)に発表した『押絵の奇蹟』は江戸川乱歩から激賞を受けた。

1930年(昭和5年)5月1日に福岡市黒門三等郵便局長を拝命する。1934年『オール讀物』発表の「骸骨の黒穂」が部落差別を助長する作品とされ『水平新聞』1935年1月5日付で糾弾される。

1932年(昭和7年)『新青年』に発表した『斜坑』が、江戸川乱歩に「非常に感情が豊かで感心した」と述べられている。

構想、執筆に10年以上をかけた代表作『ドグラ・マグラ』は、1935年(昭和10年)1月に松柏館書店から刊行され、出版記念会も催されたが、その頃の久作は急死した父の莫大な負債の整理と、父の愛人たちへの補償に追われていた。翌1936年3月11日、渋谷区南平台町の自宅で、父の負債処理を任せていたアサヒビール重役の林博を出迎え、報告書を受け取った後「今日は良い日で……」と言いかけて笑った時、脳溢血を起こして昏倒し、そのまま死亡した。

死後は父と同じ墓、福岡市の一行寺に葬られ、墓石には久作自身が生前刻んだ墓標がある。

作品の特徴

夢野久作のいくつかの作品には特徴的な手法が採られている。

  • 一人の人物が延々と話し言葉で事件の顛末を明かしていく独白体形式によるものであり『悪魔祈祷書』『支那米の袋』などの作品がこれである。
  • また、書簡をそのまま地の文として羅列し作品とする書簡体形式によるものであり『瓶詰の地獄』『少女地獄』『押絵の奇蹟』などの作品が書簡体形式の有名なものである。『ドグラ・マグラ』も全体の半分以上が書簡体形式によって構成されている。

 

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